絶刻


占室輪
presented by takala

13 years old


隣の席に座った女子の気配を、探るのが日課になった。

探ると言うと語弊だ、隣に間違いなく居るのだから。しかし居ない様に時に感じる。

霊に似ているが霊の気配ではない。生霊の気配でもない。今では判る。植物の些細な気配と同一。

彼女の名は入江輪華。



中学2年の新学期が始まって間もなく、歴史の教科書に

目を通していた。

アンダーラインを引こうとしたら赤いボールペンのインクがない事に気付いた。

─仕方がない。誰かに借りるか。女子ならペンを沢山持っているだろう。


その時に然り気ないと言うよりは只の日常の動作で、赤ペンが隣から差し出された。

「使うんでしょ」

素っ気ない声、口調だった。


「……ありがとう」

訝った表情を隠す余裕もない。直後に数種類の色が入った、無印のペンケースを軽い調子で手渡して来たからだ。

「使うんでしょ?」

念を押す様に問い掛けた彼女に初めて向き合うと、射抜くかの如く真摯に見詰める目があった。

光の加減か眼球がやや茶に見えたが、澄んだ目とはこうした目を指すのだろうと思った。


この入江という女子の存在は、入学時から知っていた。

他の地域から来たらしいという噂と





rinca 13-36y/o  takala 13-36y/o
rinca 13-36y/o takala 13-36y/o

全国絵画コンクールにて入賞したという不可思議な絵画、

やたら物静かな独特の佇まい。

美人というのでないが抜けるように肌の色が白く、ひどく華奢だった。その意味で目を引いた。


彼女のペンを借りた翌日になるが、筆圧でペン先を一本潰してしまった為に、新品を礼も兼ねて渡した。

無印良品のペンではないが、特にこだわりはない様子で彼女は受け取った。


「入江さん小学校はどこだった?」

世間話として尋ねた。もっと話をしてみたかった。一つ強烈に惹かれていた彼女の特徴があり、滑らかに研かれた温度のある氷柱の様な何とも言い難い、声質をしていた。鋭いが刺さったとしても、痛みが感じられない声。その上で柔らかい優しい話し方をした。


「入江って呼ばないで。下の名前にして。呼び捨てでいいから」

淡々と告げてから、輪華は小学校の話をした。以前住んでいた地域性から仲の良かった友人の話まで、機知に富んだ内容だった。

起承転結を以て話す。頭の中で構成立ててから人に話す様にしているのかも知れない。


一つ話題を振ると話が広がり、ずっと話していたかった。

部活が同じだという事も知っていたから、2年になって初めて、活動の場である卓球台のあるプレイルームに入った。


「高良は大会には出るよね。1年の秋季で準優勝だったよね。試合見てたよ」

話す様になりほぼ一週間、互いに名前で呼び合う程度には気安くなっていた。


彼女に見ていた、と言われて率直に喜びを覚えた。もっと見ていれば良いと思った。だからこの先の大会も出場する気になった。


卓球は遊びでしかなく、習い事の一つではあったが息抜きの様なものであった。県大会ではどんなに調子が悪くとも、ベスト8には入る。しかし遊びなので、それより上に行こうと思わない。


「私としてよ」

不意に輪華が言ったので身構えた。ラケットを彼女が手にしていた。試合を、の意だ。

ラケットはペンも扱えたが、彼女がシェイクだったので合わせた。中学から卓球を始めた彼女が強い訳がなく、気軽に相手しようと思った。


意に反し、輪華は異様に素早い動きを身上としていた。サーブに特徴があり回転が読みにくい。3球目に必ず攻撃して来る。

先ずレシーブに手こずった。スマッシュの強さは力がないのでそれ程でもない、しかし速度はある。狙うコースも際。

集中している内に試合は終わり、勝ったので胸を撫で下ろした。部員のみならずバド部の連中がギャラリーに加わる程、白熱していた。


以降も何度か試合をしたが、負けずに済んだ。






輪華は男子の友人に混ざり、家に遊びに来ていた。

女子一人でよく来るものだと思うが、家に呼ぶ様な友人はある程度、選んでいた。

頭の悪い奴は嫌いだ。会話にならない。勉強が出来る出来ないの話ではない。学校の勉強はあまりしないがPCに詳しい奴、将棋が強い奴、サッカーに打ち込んでいる奴等と付き合っていた。彼らは中の上程度の成績だが塾には行かない。課題も提出しない。やれば出来るが内申が宜しくない。しかし性質的には気が合う、善良な人柄である。


仮に輪華が学年のマドンナ的女子であろうとなかろうと、ふざけて彼女に触れる等の素行はしない。

輪華にはそれが分かっており、自然に男子の中で制服のまま転がっていた。今思うとシュールな光景である。男子数人が居る部屋で下着が透けようと見えようと無防備に眠りこける、女子。


ただ個人的に輪華とは一対一で話をしたく、その様な無防備な姿も友人に見せたくなかった。彼らの中に一人、輪華に惹かれている奴が居た。好意を示したら「ありがとう」で完了したらしい。要するに体良く断られた形である。


ある夕方に輪華を送った際「これからは一人で来れば良い」

と告げた。下心があっての申し出ではなかったのだが、「二人で何するの?」

と問われた為に沈黙が訪れた。

「じゃあ二人でいようね」

沈黙を挟み、彼女は言った。


まただ。

輪華は沈黙の中でこちらの意を受け取る、あたかも聴こえているかの様に。




最初に不可解に思っていた。先読みされる事を。透視より鮮明に見透かされる事を。

そしてこちらからは彼女の精神状態や思考が読めない事も。


自分は幼少のみぎりから他人の思考・精神を視ていた。それは当たり前に視えるものであり、誰しもその上でコミュニケーションを取っているのだと思っていた。

鈍い奴ばかりだが、脳味噌の構造が違うのだろう位には理解している。神経回路形成には各々個体差があろう。

輪華は明らかに異常に映った。手に取る様にこちらの思考が伝わる様であったし、逆にこちらからは一寸たりとも読めないのだ。

読まれるのは不快ではなかった。新鮮だった。読めないのが不快だ。


これを伝えると「疎外感はある?」と尋ねて来た。答えを知った上で尋ねて来たのだろう。コミュニケーションの為にだ。

輪華にも同様に質問した。「疎外じゃなく孤独と虚無がある」との答えだった。

そうかと答えた。そうだったのかと自分自身にも思った。

長らく物心ついてから感じていた、内面の欠落。名前を付ければ孤独と虚無。


輪華の孤独や虚無はおそらく更に根深いものであり、互いに互いの欠落を埋めようと試みる事になる。それは予測していた。




これまた個体差があるが、男で夢精の時期を覚えている者は少ない。

女の初潮と異なり明確でなかったり10歳程度であったりし、更には睡眠中だからである。

全く無い者もあるが多くは、衣類が汚れる為に判る。


輪華と二人だけで過ごす時間が増え、悪夢に近い淫夢を見る様になった。


小学5年の時、友人宅でそうしたビデオを観た事はある。その時は気味が悪いと感じた。

何故かと言えばビデオ内のプレイは「ショー」であり、それならば演技に徹すれば良いのだが、女優の体調が悪いのが視えた。複数プレイであった事もあり、豚の交尾の方が余程まともに見えた。


両親祖父母親戚がクリスチャンだった為に潔癖、というのでもない。細身で骨格が綺麗に浮き出た女の写真は、見付ければ丁寧にスクラップしていた。

性の芽生えと言えるのはその程度であり、輪華に具体的に何かをするには、彼女を穢す行いとの戒めに近い思いが先んじていた。


少年期を覚えている男性は分かると思うが、異性の肌も匂いもいっそ毒々しい程なのだ。

上手く発散出来ない奴が、犯罪者になるのだろう。

自分の場合は輪華以外の女子、特に自分に好意を持っている女子の匂いが臭くて堪らなかった。

通常の「臭い」というのではない。

良い匂いだと思う男は多いだろう。思春期独特の性の匂いである。男は余りにも臭い。

何となくだが分かる方々がおられる筈だ。

体液の匂いがするのだ。汗だけでない。性器の匂いが分かる。

必ずしも全ての霊能力者がこうではない。だが気が狂うという感覚をお分かり頂きたい。


輪華の匂いは不思議であり、「欲」が無かった。生きた人間の匂いとは違う。

それでも細い指を絡める様に手を繋がれたり、腰に両腕を回されたり凭れ掛かられたりすると、息苦しい程心拍が上がった。しかし心地良かった。

輪華は平常心の様に見えた。「触って」と平気で言う、はっきりと目を見て言われる。

手の甲や膝、肘等の触っても問題なさそうな部位から触れていた。それですら驚く程滑らかで驚いた。性別が違うだけで肌の質が違う。肌理が違う。

撫でていると時に輪華に「痛い、怖い」と言われる。皮膚が薄い。脂肪が無い。直ぐに神経や血管がある。それも観察した。

最初に口に含んだのは唇でなく指先、彼女の爪だ。手ではない。足だ。

非常に嫌がられた。その反応が面白いのでしていた。性的な時間には思えなかったが、輪華のその際の声は既に男を誘うものであったと思う。




ところで輪華の家庭環境が劣悪なのは、送りの際にわかっていた。

彼女は必ず路地に入る前、自宅付近で「ここまででいい」と言った。「ここまででいいよ、おやすみなさい」と。

そして振り返らず行ってしまう。泣いている時もあった。泣きながら家に帰って行く。


服装等は小綺麗だったが、髪は長かった。

ごく普通にシャンプーの匂いがする。とかしてはあるが結う事はない。髪をかき分けて耳や首筋、真っ白なうなじを見たら嫌がられた。

未だ脱がせる事はしていなかったが、肌を見せたがらない。特に腿や二の腕、腹部は嫌がっていた。

普通の嫌がり方ではなかった。戯れとしか感じない位の強さで膝より上に触れたら、気絶した事がある。


持ち物は派手な物や流行りの物ではなかった。質素としか言い様がないが、それらを好ましく思った。但し私服は大人びていた。姉の服しか無い、と彼女は言った。


見て直ぐに分かる。栄養失調である。食べていないのは明白。

学校には給食があったが、それも殆ど手を付けない。野菜や果物、スープ類は口にした。

輪華はあらゆる方面に過敏な部分があった。例えば音や光。匂いも自分と同様に感じると言った。触覚もそうであろう。

拒食症を診断される前の事だったが、症状の一つなのだろうかと思った。霊的な弊害でもあるのだろうが。


まさか自宅に食べ物が無いとは思わなかった。そんな家が現実に存在するのかと。

しかもどうやら貧困の為ではない様なのだ。意図的に食べ物を与えられない様だった。


母親が輪華に食べたい物はないか、自然な申し出を始めたのが最初だ。

母は輪華の希望に従い、夕食を作る様になっていった。

ネグレクトだけでなく身体的虐待、更には性的虐待の影をうちの両親は察していた。




うちの両親特に母親が輪華を、家で保護したがったのには理由がある。

同性であればこそ性虐待の気配に勘付いた、というのもある。それ以前に輪華は挨拶を始め礼儀作法がしっかりとしており、話し方も話の内容も謙虚なものだった。敬語は遣い慣れており自然であった。


後に電話での風俗業を、義理の親にやらされていたと知る。そんな場で培われた対応には見えなかった。

元より彼女の血縁関係の父の家系は、非常に立派なものだ。特に祖母は厳しかったと聞く。礼儀とは大切な要素だ。現在も仕事上の彼女の受け答えは、美しい日本の言葉である。


最も鮮烈だったのが轢かれた猫を道路に自身が飛び出して、その死体を迷い無く抱き上げた時の姿だ。

小雨も降っており死体は損壊が激しかった。

内臓が散らばった状態であり、輪華は猫を抱いたままでその一部一部を白いハンカチの上に拾い、包んだ。

彼女が大気を震わせる様に泣くのを見た

それ迄は泣いていても泣き顔を見せず、俯いたり自分の前から逃げたりしていた。

輪華は歌う様に泣く。呼吸を懸命に接ぐ。生きる様に泣く。即ち彼女が泣いている時は生者に見える。普段は恐ろしく霊的に見える。


猫の死体をこちらに預ける様に促したが、頑として手離さなかった。ハンカチは持たせて貰った。彼女の弔いに手を貸したかった。


家の裏手の林に埋めた為、母親は一部始終を知っている。後から花を手向けていた。

この時の輪華の表情や様子は、絶対的な巫女そのものだった。その辺の人間なら決してしない行いである。


輪華が家の浴室を使う様になった日。そして初めて父親に会った日でもある。


父は輪華の制服や学用品が売られてしまう事、自宅に食べ物が無い事、輪華の母親が殆ど帰って来ない事、義理の父親との折り合いが良くない事等を上手く聞き出した様子だった。

余りにも酷な話は聞いていない筈だが、彼女の様相や話し方のせいなのか父は溜息を吐いていた。その後祈っていた。


この頃自分は教義自体、宗教全体に疑問を持っていた。隣にいる善意の塊の輪華。何一つ罪も穢れもない存在が強いられる不幸。

分かりやすい不幸だ。この世の地獄。

祈りで救われるなら祈るが、具体的に何かしなければならない。しかし何をして良いのかが解らない。

輪華は朗らかな性格であり仕種も発する空気も柔らかいが、時として「おかしく」なった。確かにエラーが起きている状態であり、手を噛んだり引っ掻く様な行動、爪で二の腕を傷付ける行動、書いたり口に出す分には大した行為に思えないが流血する迄やる。繰り返している為紫の瘡蓋の様な傷になっていた。

うちの両親の前ではやらなかった。学校を始め外でもしない。気を許しているからか甘えたいからか、自分の前でだけはやった。

この程度の症状は背や肩に触れたり手を握る事で治まった。







14 years old


誕生日を迎え14になった。

輪華とは一緒に居る時間が長くなっていた。

学校ではそれぞれ友人といたが、合流して大人数で過ごす時もある。

部活では二人とも部長をしていた、生徒会役員の仕事も共にこなしていた。

輪華には生まれ付きの病気があり、心臓が弱いと言われていた。こればかりは早い段階で診断書があり、学校側も知っていた。

未だ運動が禁じられてはいなかったが、蒼白な顔をし痩せ細った彼女に誰も無理強いはしなかった。水泳の授業等は毎回休んでいた様に思う。


保健室には何度も何度も飽きる位には、連れて行った。輪華はやたら下痢や吐き気に苦しむ。精神的なものだと思うが実際に腹を下し、間に合わず嘔吐するのも見た。

吐瀉物を片付けるのも別段、負担に思わなかった。

輪華と「付き合っている」との噂は品の無い内容も含み、よく耳にした。特に仲良くはない男子生徒に「真面目な顔してヤりまくりだな」とも言われた。否定はしなかった。


挿入の無いセックスを既にしている様なものだと、人によっては思う事だろう。

唇へのキスもしてはいない。しかしそれ以外のあらゆる箇所に口をつけている。場合によっては舌を這わせた。

輪華は病的な神経過敏であり、普段は静かに話すが聞いた事が無い様な声で激しく泣く事があった。喘ぎの“鳴いた”ではない。

家は全室防音だったがそれでも階下に聞こえないか、スリルを覚える程度の声だ。

その声が聞けるまでは続けた。

最後まではしない。輪華の前で達したくなかった。

思春期の気恥ずかしい感覚とはやや異なり、輪華が見たくないと感じている筈だったからである。

ギリギリ迄理性を保つ事。本能を見せたら嫌われる様な感覚があった。

ここからが正常では無くなるが、「一人で居る時にマスターベーションをしないで欲しい」と輪華は言った。

彼女はマスターベーションという言葉を用いた。

この頃もはや支配と被支配が、入れ替わる関係だった。「私は義理の父が目の前で射精するのを見せられている、だから見たくない、高良がそうなるのは見たくない、していたら念が飛んで来るから分かる、他のAVを観てしてても分かる、私に対しての欲だから」との事だった。

ここに至る迄自分は手淫をした事は無かった。たが夢は毎晩見ていた。解放される事の無い悪夢に似た淫夢であり、背景は常に赤黒い。子宮の中に閉じ込められているかの様な夢であり、安心感と恐怖感が同時にあった。

生前の記憶と混合している。生まれる前の安心と恐怖。

輪華に対しては次の段階に進むに当たって伴う恐怖、されど触れている安心感。夢の中では何千回と抱く手順を踏んでいる。

夢を見るし起きれば出している、だから希望には添えないと正直に申告した。輪華は極めて困った顔付きをした。「夢迄はよくわからないから、いいよ」と言った。この頃は夢は視えないらしかった。


捻れた関係はここから始まっていた。

「好きなだけ体を触って良い、いつでも好きな様に好きな事をして良い、ちゃんと最後までして欲しい、夢なんて禁じられないから何でも見れば良い、だけど手で一人でしないで、その手では触らないで、その手ではピアノを弾かないで」

禁止令は上記の内容だった。

完璧に彼女のトラウマに基づく、彼女の我儘でしかない。他者の性を縛るというのは多大なる支配。

輪華の求めている理想の恋人像はどうやら、禁欲的で理性的である事。しかし二人でいる時には開放されている事。この二点の様だった。


禁止令はその後も影を落とす事になる。解放されたのは26だ。26迄は輪華の呪いに縛られていた。

夢を見る以外は一切の自慰をしなかった事になる。信じられないと思われるだろうが、だからこそ輪華と離れている間は他の女が必要だった。

大学に行く迄は軽症鬱の様相を呈しており、目に見える性欲は無かったが。


輪華以外の他の女は、道具にした事になる。それも否定しない。自慰を試みた事はある。想像がつくであろうがその時のみ不能。味わった呪いの効力の強さは説明がつかない。


輪華の存在が余りにも若い時分には大き過ぎ、ある種の傷を負ったと言い換えも出来る。その傷、その呪いは輪華から贈られたものであるのだから喜ぶべきかも知れなかった。

反して憂さ晴らしに一度切りの女と何人か、20代に入ってからだが関係した。それも全てではないが輪華に告げた。小首を傾げて聞いていた。その時は殺したい程苛ついた。

他者に暴力的な欲望を抱く事は断じて無い筈が、輪華に対しては犯し抜いて殺したいと思った。

自慰を母親に禁じられた息子は、母親を殺すか自殺するか廃人になるか三者択一という事例がある。似たり寄ったりである。




中学2年、12月。

輪華に付き合っている状態なのか否か尋ねる。

笑いながら「じゃあ今日から、今日からね。今日から付き合って。ね。付き合おうね」と言われる。

確認は必要であり肝要だ。それでもなかなか踏ん切りがつかない。

漸く全裸の状態を目にする。腹部と脚に深い傷があり、腹部は切られたと言った。脚は火傷と切傷だった。

この重症を彼女は病院に行かず、一人で治したと言った。小学生の時だと。何故切られたのかは分からないといつも通り静かな声で、何でもない日常の話をするが如く他人の話をする如く。

傷に触れて彼女の名前を呼んで泣いたが、それでも輪華の表情は動かず他人事の様な風情だった。

人はこうなるのかと悟った。限界を越えたら無かった事にするか、又は意識を切り離すのだ。


常に輪華に対しては一段階高位にある存在、人間というより精霊か何かに思えてならなかった。馬鹿馬鹿しいと思わないで貰いたいが、只笑っている顔を見て目を逸らす位には眩しく、哀しい存在だった。生きているのが不自然な存在だと思え、仕方ない。


セックスが彼女を穢す行為には思えないが、そもそも生殖の為の行為を快楽の為に行うのか、愛情確認なら他の方法でも満足ではないのか、自問自答の日々である。

ロマンチストに思われるに違いないが、輪華の体は実際に脆く華奢過ぎた。乱暴にすれば壊れたであろうと思う。


輪華は「誰ともした事はない。最初は高良としかしたくない」とも言った。

信じたのは指が入らなかった事と、初回にかなり出血したからである。


一度したら墜落する様なもので、二人で居れば暇さえ有れば何らかの行為はしていた。

どんどん堕ちる様にアブノーマルな世界へと足を、ぬかるんだ深みにへと踏み入れて行く事になる。

興味が有った事も無かった事も輪華がしたいだけの事も、手招かれるまましていた。首を絞めて落とすのは、この時期覚えた。一歩間違えば殺していたが、危険性については知っていた。

人間は様々な事を考えつくものだが、アナル等は当然試した。経血も舐め飲み下した。

輪華の要求は度を越えていた。耳朶を咬み千切って欲しい、痛みが無いと生きているか分からない等々。

流石に従えなかった。唇は咬み血を飲んだが、千切れたのは表層でしかない。


何れにしろ行為自体でなく求められているのは、その時間を輪華だけに注ぐ事だった。幾ら言葉で好きだとか愛しているといった類いを口にしても全く、信じていなかった。

「そう、それならこれをして」といった具合だ。

伝わっていなかったとは思わないが、性行為を経て感じた輪華は丸で別人であり、終わると従順或いは清純な顔に戻った。


精神的にはこちらも不安定になった。食欲が無くなる、一緒に居れば互いに何かを確認する為に求める、他の人間関係がどうでも良くなる、離人的感覚により現実味が無い。

寝ても覚めても離れて居ても輪華の影。匂い。一人で寝ていても、輪華の呼吸の音が聞こえる。

理由は掴めないが強烈な頭痛に、悩まされる様にもなった。

とんでもない存在に手を出したと思ったが後悔は無く、その不安定さが心地良くもあった。


この狂った状態は形を変え、ずっと付き纏う事になる。


15 years old


進学については心配していなかった。

推薦で県下一の進学校に楽に入れる。輪華は一般入試になるが、定期テスト実力テストの結果は常に学年で10以内には入っていた。当時はマンモス校であった為毎年20人程度は、その高校へ進学する生徒があった。


輪華は数学以外の点は良かった。理・社は記憶力でしか点を取っておらず、高校入学後は化学の理解が追い付かなくなるが、中3時点では数学の大問も解いていた。

何故なのか全く手を付けなかったり、間違える日もある。日によって実力,理解力に差がある。昨日は難問を解いていたのに今日は「こんなの分からない」と言う。

食事や睡眠を摂っているかどうか、精神状態が良いか悪いか、コンディションによるのだろうかと思い深く考えなかった。


楽に入れるのだから塾に行く意味が解らなくなった。小学生時から塾には行っていたが、勉強面の強化でなく歳上の講師達との交流の為、父親が行けば良いと言っただけなのだ。


夏期講習に申込むのを止めた。輪華と夏休みの間中、一緒に居られる。

この時期は高濃度の液体の中に浸かった様な時間であり、輪華以外の人間からは遮断されていた。次第に友人らと接する事も無くなった。中3生という事もあり友人らも、勉強を始めていた。

抜け出したくない深海の様な空間、時間。心身が溶け出して行く感覚、輪華と混ざり合う感覚、どちらの体かどちらの匂いか判らなくなる。

半分眠っている様でもあり、覚醒し切った状態にも似ている。或いは熟睡しているのか死に近い状態なのか、漂うだけの時間が多かった。体から意識が漏れて行く。

図書館に連れて行く、海に連れて行く等の為に外に出れば真夏の陽の光は、意識の白濁に拍車を掛けた。かと言って部屋に籠って居れば、エアコンで冷えた室内は非現実感を強めた。

輪華の声も持っている空気も話す言葉も触感も、麻薬か何かに思えた。


彼女は本を読んだり勉強したり共にゲームをする等、ごくごく普通に過ごしていた様だ。

だが読む本は遠い国の戦争の話であったり、快楽殺人についてであったりと議論すれば暗くなる内容。

ゲームにしろアクション系パズル系は相手にならない為、RPGになるがやはり現実を離れる様な内容。輪華は画面を、膝の上で寝転んで観ていた。


輪華は特別、二人きりの空間に埋没せず正気に見えた。母が料理するのを手伝い、庭仕事するのを手伝い手芸を教わり、掃除や洗濯、皿洗い等もしていた。

父には英語を習う、洗車を手伝う等やはり実の娘の様に接していた。父も母も家に娘がいるかの様に接した。

教会へも三人で出掛けて行く。自分は怠く、教義にも賛同している訳でないから行きたくなかった。



両親は輪華が家に居る事を、当然とした。世間から見ればそれも異常に思えるが、彼女の家庭が先ず異常過ぎた。

輪華の母親が帰って来ない、と聞いていた。

確かに学校側も訝っていた。進路相談に親が来ない、電話にも出ない、担任が訪ねても会えない。

うちの両親を始め役所も動いていた。しかし何の処置も出来なかった。

輪華が口を割らなかったせいもある。虐待なんてされていない、と泣きながら大人達に言った。

彼女は「虐待」の言葉も出せなかった。言葉は呪文だ、口にしたら現実と認めねばならない。それを避けている様子だった。

何もされていない、という言い方だった。

食事は自ら拒んでいるかの様な言い方。

高校は行きたくない、働きたい。それ迄、この家に居させて欲しい、と言った。


両親は彼女の進学費用すら、負担する積もりだった。彼女の資格試験代や参考書代、学用品代等を父親は惜しまなかった。


彼女の滑り止めの私立校の受験料も、父親は負担した。第一志望はおそらく進学校の為、

彼女の義理の親は見栄を張りたかったのか何なのか、受験料も入学費も授業料も出した。

チグハグな感覚であり薄気味悪いというのが、こちらの感覚。


学校側はこちらの家で保護しているのを知っていた上、それで面倒が無くなったと言わんばかりだった。役所も同様。要は虐待の立証等は面倒な案件なのだ。


父親には早々に、将来結婚すると言っておいた。大学は出る事、就職してからであればとの事だったが名実共に家で輪華を守る為には、結婚するのが最短だった。

父に避妊について気を付ける様に言われたが、知った事ではない。子供だが子供とは言い切れない男女が、互いに好意ある状態で長時間二人きりなのだから両親は容認していた事になる。但しアブノーマルな行為は想像もしていないだろう。


彼女の義理の父が例えば迎えに来たとしたらだが、渡すしかない。親権があちらにある。

虐待の証明が出来ない。法的な根拠がない。

実際には電話も繋がらず、両親は輪華の家を訪ねたが話し合いは不可能だった。




輪華は体の傷を自傷と言った。

自傷の筈がない、家に帰せば背中に打たれた様な傷を作って来た。

鞭で打たれた傷を見た事のある人間が、どれ程いるだろうか。正確にはベルトのバックルや縄跳びの縄だと思うが、人は打たれ続ければ死ぬ。そうでなくとも骨の形が分かる様な体だ。死ななかったのが不思議である。痛みだけでもショック死する事はある。


輪華を守れるならその傷を作った人間を、この世から消してやりたかった。真剣に、人を一人消すに当たりその方法を考えた。

考えていると輪華は邪魔して来た。食む様に唇を付けて来る。するとどうでも良くなる。その時間に限っては。

今は今しかない、凄まじいスピードで通り過ぎて行く。だからちゃちな機器で彼女のその時の姿や声を残したかった。温度や湿度は残せなかった。保存したかった。


病む、という感覚は未だに分からない。食欲は無かった。身長が既に180近くあったが体重が60程度だった。痩せて行くが調子は悪くない。

野生動物は空腹であると意識が研ぎ澄まされる。獲物を狙う為だ。この状態だった。

眠りも浅い。勉強には集中出来る。遊んで居ても理解出来る内容な為、高校の参考書を購入して勉強していた。センター試験の問題もこの時点で解ける。早めに志望大学、学部学科を絞っておかないといけない。


書道・スイミング・卓球・珠算の習い事も止めたが、ピアノだけは続けた。輪華が喜んで聴いていたからである。

全てに於ての最優先項目が輪華、他は排したい。これを病みというなら病みなのだろう。








秋が深まり、蜃気楼の様な理由のない混乱は治まりつつあった。真夏の魔性だったのか、輪華の魔性が強い時期だったのか判別出来ない。

静かな部屋で二人で眠りに落ちる時間は、ひたすら至福だった。

しかしながら異常な激しい性交が形を変えたかと言えば、変わらずだった。どころか異常性を増していた。

背中の傷を見付けてからだろうか、境目が何処だったかも判別出来ない。

最も望まれたのが切って欲しいという内容で、掌や腿の付根等が多かった。

〔血を見たら安心出来る、血が流れ落ちるとちゃんと泣ける、可哀想だと自分自身を思える、血は温かくなくて温いけれど流れる感触は分かる、私は生きている、血を流す所を高良に見て欲しい〕

この様な事を言っていた。それなら自傷を見ていれば良い訳だが、自傷行為は引っ掻く、噛む位のものだった。

切って欲しいという事の意味を考えた。彼女は受けた傷を虐待だと思いたくないのだろう、自分が愛情表現で傷を付けたなら他の誰かに傷を付けられても、それは悪意でなく愛情だったと塗り替えられる。

試しに望まれた箇所でなく背中や腹部、脚の傷の上から傷を付けた。手近にあった鋏の刃だった為、深い傷にはならない。

輪華は痛がる様子もなく、目を瞑ったままで心地良さそうに見えた。「もっと」「ちゃんと」と繰り返した。その上で傷を舐めたりそのまま性行為に移れば、安心した様に眠った。快楽的でなく儀式的だった。


傷は重ねて何度も付ける様に命じられた。命令である。鋏は工作用の小刀に変わり貝印の切れ味鋭い剃刀に変わり、最後にゾーリンゲン製の果物ナイフになった。剃刀は輪華が買って来たがナイフは、家に使っていない物があった。




輪華は体の傷について口外するなと言った。

珍しく強い口調での命令であり、彼女が自死を選んだり別れを選んだらと思うと口外は出来なかった。自分が上から傷を作り直している事もあり、親は無論他人に説明しても理解される筈がない。

こんな事を繰り返してはいけない、と思わないでもなかった。両親と話をしている時に特に強く、感じた。しかし輪華に選ばれて望まれて応えている。応えられる事は喜び。彼女を救っている、と信じて疑わずに居た。


うちの母親が輪華の髪を洗ってやる時があったが、輪華は着衣のまま浴室に入るかシャンプードレッサーで良いと言っていた。

入浴後に服に袖を通してから、母を呼んでいた。

輪華を猫可愛がりしていた母は下着を始め、服をよく買って来た。輪華は一人で髪を乾かす等が出来ず、最初の頃は入浴後に全裸で部屋に入って来た。かろうじて一階リビングでなく二階限定ではあったが、非常に驚いた。驚いて世話してやれば目を細め、気持ち良さそうに寛ぐ。

「ありがとう」と力を籠めて言って貰える。目をしっかりと見てこれ以上無く真剣に「高良。ありがとう」


この一言は重く、生まれて来てくれてありがとう、と言われているかの様な出逢えた事自体への礼だった。言われて涙ぐむ事すら有ったのだ。


あれやこれや世話を焼かれ「お姫様になった気持ちがする」と輪華は時たま言った。頬笑む時もあるが無表情が多かった。


家には如何にも嫌味な調度品等はそれ程なく、両親共質素であった。だが輪華は例えばカーテンやタオルや寝具の質感が、全く違うのだと言った。家の造りが違うのだと。寒くない家、とも言った。

「夢を見ている気持ち」「罪悪感がする」とも言った。食事に対しては特に強情であり、

食べてはいけないと思うらしかった。

何度も勧めれば食べた。しかし幼児の食事量。

輪華はこの家の娘になった錯覚を抱いたのかも知れず、少なくともだがうちの両親は輪華を娘と思っていた。


学校では普通の仲の良いカップルに見えた筈であり、輪華を守る為にもその様に演出していた。輪華自身が優等生の素振りをしたがった。

事実優等生ではあったが、同じタイプのもう少し羽目を外す性質の女子と親友らしく時々、そちらの家に行っていた。

輪華と離れると極度の不安に陥り、迎えに行っては過保護だと彼女の親友に笑われた。気にした事は無いが。


殆ど全ての時間、輪華は朗らかであり怒る事が皆無だった。無表情を隠すかの様な朗らかさであると、徐々に気付いていった。

真から頬笑んでいる事があり、その顔を見ると紙にインクを垂らした様なじわじわとした喜びを覚えた。


よく泣くが自身以外の事に泣く。誰かが苛めに遭った、悪口を言われている等の類。又はニュース番組。ノンフィクションの映画。


声が異様に低い時があり、耳を疑って顔をまじまじと見ると輪華の顔でない様な気がする時があった。何度かあった。目付きが違う。

表現し難いが知的。これに尽きる。


もう一つ憑依かと思った出来事があり、夜中に客室で寝ていた輪華がゆっくりとこちらに来、自室に入り鍵を閉めここ迄はいつも通りだが気配が違うと感じた。


無言で跨がって来た。誰だこの女は、程度には違和感があった。霊的現象に思えたが輪華自体が霊的な女である。こんな事も有るだろうとそのままにしたがその日は避妊せず、終わった。最中に何度か名前を呼んだが応えず、体の使い方も輪華には思えない。騎乗位で最後までするには体力が要る。

翌日あれは何だったのか何故避妊しなかったのか、問い掛ける事が出来なかった。それならばそれで良かったからである。





春。無事に二人とも合格、高校入学。

理数科と普通科の為、クラスは離れる。4月は必ず一緒に帰宅したが、5月より輪華はレストランでバイトを始めた。


日を追う毎に離れる時間が多くなった。夕方から彼女は働き、賄いで夕食を済ませる。

150円程度の負担でハンバーグやパスタが食べられるんだよ、との事であったが彼女が食べていたのはサラダとスープ、パンのみらしかった。

学校が休みの日は朝10時から、夜10時まで働いていた。夜遅く父がレストランへ迎えに行く。そしてやっと二人で眠った。


学校の課題は多かったが負担という程でもない、輪華と離れている時間が息苦しい。バスで迎えに行った事もある。


「高良は勉強しないとね」と言われた。区切られた感覚。

妙な焦燥感があった。当然隣に居続けるだろうと思っていた輪華は、離れて行く積もりなのではないか。


避妊をしない様にし出したのがこの時期、輪華が疲れていて半分寝ているかの時を狙った。一度スキン無しで誘うかの様な行動が有ったのだから、あちらも子供が出来ればと望んでいるのではないだろうか。都合良く解釈した。

「着けないの?」とぼんやりと訊かれた事もある。これはバイト先で飲み会があったとかで、彼女は飲酒して帰って来た後だ。アルコールの匂いがしたのだから、確かである。


益々遠くに彼女は行く気がした。先に大人達の中に入り先に、大人になる。両親は差し出されても受け取らずにいたが、月に5-6万程は得て来た。他校に行った友人は学校があるとバイトで稼げるのは、2-3万が精一杯だと話していた。

子供にしか見えない体型の彼女が身を粉にして働く、痛々しさ。


どうせ酔っているだろう。「着けたくない」と答えた。彼女は何も言わなかった。なるべく事前事後にシャワーをする筈が、その日はそのまま眠っていた。

期待した。輪華は月経不順であり時には2ヶ月に1度、又は1ヶ月に2度寝込んでいた。その後直ぐに経血を見るはめになる。

輪華は多量に出血する。そのせいか生理とは流産の様なものだと、その時感じた。


避妊しない算段については、悪い事には思えなかった。輪華が自分との子供を望んでいないとは、微塵も思わなかった。


自分本位になりつつあった。輪華は所有物。他の人間には貸してやっている感覚。そうでも思わないとプライドが保てない、輪華に「もう働ける様になったから、あなたは要らない」と言われている様な。虚妄だが辛かった。離れて行くのではないかと思うと足元が瓦解するかの様な、恐怖感があった。


一緒に居れば甘えて来る。その時は深く安堵する。馬鹿らしいがずっと繋がって居たい。不衛生だが抜かずに寝る事が増えた。自然に抜ければ彼女は勝手に起き出し、浴室へ行く。そして何も気にせず壁を向いて寝る。だから無理にこちらを向かせて抱いて眠る。嫌がられても掴んで押さえつけて眠る。


好きな時に抱ける人形。言ってしまえばこの意識は有った。大事にしていた人形が勝手に歩き回り、外へと出てしまう。

輪華は虐待被害者であり犯罪被害者である、だから家に居る。ケアしなければならない。しかしケアする事が重い。重苦しい。人形と思えば楽だ。弄れば音が出る人形。触り心地が良く性欲処理が出来る人形。狂う様な精神等持たず、一生自分の部屋に座って居れば良い。


これらの身勝手さを感じ取らない訳がない。

どんどん彼女は家に寄り付かなくなった。

バイト先の友人や先輩の家に行く、泊めて貰う、朝方迄カラオケボックス内で過ごす。


「高良の家に入る身分じゃない」と言われた。一体いつの時代の人間なのか。身分とは何なのだ。「私は汚いから、綺麗な所には居られない、高良は綺麗だから汚したくない」

これらも言われた。同じ意味の事を言葉を変えて、幾度か言われた。


だがしかし、ある時は「浄化して」と身を擦り付けて来る。浄化。

誰か別の男に触られた、或いはもっと酷い目に遭った。誰だ。誰が。察しはつくが怒りより彼女を先ず、冷静に観察しなければ。冷静に対応しなければ。冷静に接さなければ死んでしまう。

体は自ずと反応するが精神は、混乱したままである。快感は一瞬。残るは虚無。以前は充たされたというのに。

一瞬埋まるがまた虚無。

不足分を埋める為、彼女が来れば言葉より先に体温を確かめる。やり方も横暴になって行った。時間が無いと思っていた。


痛みは確かな感覚で後から快感に変わるのだと、彼女は言っていた。人間は痛感に耐えられないから脳内を快楽に書き換える、と。


このままでは終わる。関係が終わる。或いは輪華が自殺する。図式は掴めるが不安が止まらない、どこまで従ってくれるか試そうとした。従ってくれれば不安が消える。


口でしてくれるか、喉の奥を突いても離さず咬まず従ったままであるか。

唾液であれ尿であれ命じれば飲むのか、具合が悪くとも脚を開くか。これらはあっさりと受け容れられた。抗議の一言も無かった。


終わればいつも通り。聖女の様な振る舞いをする。まだ大丈夫だろう。訊けば好きだと答えてくれる。もっと要求しても応えてくれるだろう。







16 years old

誕生日に万年筆を貰った。

高校生が使う様な代物でない。これを輪華が働いて購入し贈ってくれたと思うと、直ぐには使えなかった。

包装も暫く解けなかった。


据わった目でまた「浄化して」と要求される。

その後言葉無く腰骨の上と左胸に、彫刻刀で彼女の名を彫られた。重ねて彫られた為今では傷でしかなく、判別出来ないが確かに名を彫られた。

全くと言って良いが痛みは無かった。輪華の独占欲。彼女に独占欲が有ったのかとその時に知った。念が入り込んで来た。満たされた。自分は幸運であり幸福だと思った。最初に欲した異性が、体に刻み込まれた感覚。





翌月12/28 16:00前


連絡が急に取れなくなった。今朝までいつも通りだった、昨夜も泊まって行った。

事件事故を最初に疑う。そうでない事は直ぐに判った。


レストランは15日で辞めていた事が判明。

引っ越しが理由だと、顔見知りの店長は電話にて言った。彼女を迎えに行ったり家族で食事にも、足を運んだ店である。

何故知らないのかと逆に問われた。何も聞いていないと言うと店長は、言葉に詰まった。

彼もまた輪華が普通の家庭の少女ではないと知って、雇っていた。通っている高校はそもそもバイト禁止である。


まさかと思い学校に行った。職員室に彼女のクラスの担任が居た。

つい先程輪華とその母親と面談していた、自主退学の手続を終えたと。

全身が冷たくなった。冷水を掛けられたかの様だった。何故だ、一緒に通うと決めて進学したのではなかったか。

まだその辺りにいるかと思ったがバスでなく、タクシーで移動したらしかった。


輪華のPHSに数分置きに電話した。自殺すると思ったのだ。

繋がるが出ない。



翌日

翌々日



時間が色を失った。目の前の風景も色を失った。何も認識せずベッドの中で過ごした。


電話は繋がるが出ない。それが答えなのかと察した。死んだにしろ生きているにしろ。輪華は自分を棄てた。見限ったのだ。

冗談でも大袈裟でもなく立ち上がる事が出来なかった。部屋から出られなかった。生まれてから初めて便秘を経験した。トイレにも力が入らず歩いて行けなかった為ゴミ箱の袋に、用を足した次第だ。何も喉を通らず気を失う様に細切れの睡眠を摂り、年末に漸く水を飲んだ。


涙も出ない。輪華は死んだのか。そう思い浮かべると妙に納得した。そうか、死んだのか。


最初から死に掛けていたじゃないか。



学校の屋上で柵を乗り越え、柵から手を離しては「今日もまだ落ちない。高良の愛が通じたから」と毎日、試していた彼女を思い出す。思い出すと笑みが浮かんだ。

地面に落ちて行く仕種をして直ぐ、柵を指で掴む。彼女の指は真っ白で、青い血管が透けている。触れてもいつも冷たかった。死者の様に。



樹海かも知れない。樹海で死にたいと話していた。

死者の気配であれば分かる。捜して、遺体でも見付かれば良い。見付けられたなら隣で死のう。積極的には自らは死なない。彼女の霊と共に居、対話しながら餓死なり衰弱死なり。望む所だ。


正月だというのに樹海へ出掛けた。両親はどんな言葉も掛けて来なかった。自由にさせてくれた。



樹海は温かい場所に感じた。死者の息吹きと言うとおかしいが死者同士の、連携が有るのだと感じた。

輪華の気配は無かった。近くに居れば匂いがするから分かる。死んで居れば尚の事。

PHSは鳴るが、もし樹海でない何処かで死んで居れば、彼女の口座から使用料が引き落とせる限りは繋がるのだろう。

何者かに殺されたとは、どうしても思えない。殺されたのなら霊として、先ず自分に逢いに来るだろう。

失踪よりは自殺と考えた方が、まだ救われた。棄てられたのではない拒絶されたのではない、輪華は不幸に呑まれて死を選ぶしかなかったのだ。



樹海に行った事自体は良かった。

樹海に行く目的が出来た為、抜殻状態ではなくなった。

樹海という、人が死を目指す場所が意外に穏やかである事。未だ自分はここに受け入れられないだろう事。輪華が死んだとしたら、楽になれたのかも知れない事。

樹海に来た事で初めて泣けたが、輪華を失った自分を悼む為であり彼女の為には、泣いていなかった様に思っている。







17 years old



死んだ様に紡がれる日々。

食欲は益々なくなった。55kgまで体重は落ちた。

両親特に母親は輪華の話題を避けた。母親は母親で電話を掛けたり、親同士のネットワークを活用し捜していた。それで精神を保とうとしていた。

父親は「彼女は自立した」と告げた。「人はどんな事があろうと乗り越えて、生きて行かねばならない。輪華は自らの力で立っているだけだ」…

父親は生きていると確信していた。それで精神を保とうとしていた。

二人は彼女に祈りを捧げていたが、自分は父親に反感を持った。生きているなら自分を除外する訳がない。棄て去る訳がないではないか。


学校へは行った。勉強はした。ゾンビの様に見えただろう。

入学時は高校でも、生徒会には入ろうと思っていた。最早そんな気力は無い。

部活も半幽霊部員であり大会のみ出場し入賞し学校に貢献していたが、もうどうでも良い。辞めた。

ピアノは弾いた。輪華の霊に聴かせる積もりだった。弾いて居れば霊として来るのではないか、背後から細い腕が巻き付いて来るのではないか。

それ迄は技巧を見せつける、派手なリストの曲を好んでいた。

しかし輪華が好きだったドビュッシーを弾いた。アラベスク。ベルガマスク組曲、月の光。繰り返し弾いた。彼女の事しか思い出さなかった。


片目を瞑って過ごしている様なもの、勉強も頭の半分でしかやらない。提出課題だけはやる。授業を聞いていれば理解出来る。2年から独自に受験勉強を始めたが、それも頭半分。いまいち成績は伸びない。どうでも良い。1年の時は首席だったが次席に落ちた。

どうでも良い。


家に腐る程あるクラシックCDをヘッドフォンで聴く、ただ横たわる時間が増えた。

クラシックは時間を飛ばすには最適だ。ベートーヴェン交響曲第7番、ブラームス交響曲第1番、モーツァルト レクイエム、バッハ マタイ受難曲。

聴いている内に眠り、輪華の夢を見る。また悪夢に似た淫夢。夢でならば逢える。夢の中に居たい。夢に浸かって死にたい。


夢の中で輪華に殺してくれと頼んだ。彼女は笑っていた。


希死念慮。首吊りは如何なものか。どんなに事前に下剤や利尿剤を用いても、垂れ流して死ぬ。多少ならそれも仕方ない。眼球が飛び出ぬ様にアイマスクをする。舌が下がり落ちぬ様に布を口に詰め、ガムテープでも貼るか。

情けない姿だ。両親は嘆くだろう。


飛び降り。高い所は好きではない。飛ぶ瞬間は快楽的らしい。死体は人間の原形を留めるだろうか。ビルの持主、住居なら住人の迷惑千万。

電車。親が賠償せねばなるまい。人々の足止め。大迷惑も良い所だ。

薬。高校生が入手出来る薬では死なない。

頸動脈を切るか。否、刺さねば。天井迄も血が吹き上がるらしい。母親にその部屋、その死体を見せるのか。父親は受け入れるだろうが。否駄目だ、二人とも泣く。


凍死は。良い按配に体重が激落ちしている。日中歩いて体を疲れさせる。睡眠と食事が無い状態にする。

高校2年の12月になっていた。あれから丸一年。月日は早足なのだが濁った水溜りの様なもの。波紋が無い。

一晩海の傍の樹林で過ごした。死ねなかった。



友人達に誘われ、「お好み焼きパーティー」という名の合コンに参加。

他校の2年生女子と連絡先を交換する。

容姿も偏差値も趣味も性格も、何もかもが普通。特徴が無い。

指の形が良かった。輪華に重ねたのはそれだけだ。

自宅には招かなかった。輪華と居た場所には呼ばない。


「普通の彼女」の家には行った。普通だった。普通の家の匂いがあった。普通の家族に会った。普通に挨拶をした。彼女の部屋に入った。何をしに来たのか。数学を教えた。何を求められているのか。輪華でない人間の欲。鬱陶しい。


彼女が抱き付いて来る。

輪華じゃない。これは輪華の体ではない。柔らかい。温かい。しかし不快。

キスもしたくない。ましてやそれ以上の事はしたくない。指だけが気になる。髪を撫で、指を唇に含んだ。輪華の味ではなかった。


それから連絡は山程来た。受験勉強が忙しいから別れようと、ベッドで横たわりながら事務的に告げた。



父の車で夜中、自殺未遂する。

マフラーから排気ガスを入れようと試みた。細かく目張りした。市販薬,処方薬の風邪薬をかなり飲んだ。吐かずに済むギリギリの量。アルコールにて摂取。変化無し。手の痺れと震え。眠気。体が熱い。それだけだ。人間はどうやったら死ぬのだ。

輪華の霊どころか幻想も出て来ない。いい加減にしてくれ、解放してくれ。





18-19 years old


少々勉強が楽しくなる。

志望学部を僅かに迷う。経営者の父親には何でも好きにして良いと言われる。


同じクラスのKとよく話す様になる。Kは理III志望。時々彼と成績は競ったが、抜かれる事の方が多い。彼と競うのが楽しかった。


Kは興味深い話をした。念視しながら腕を人間の心臓に突っ込むという、心霊治療。悪魔教団に於いて人格が400枝分かれしたという、少女の話。髪を土人形或いは藁人形に込め他人を、呪殺する方法。


既に科学者の顔をした彼は時に、反証や実験を促して来た。ボタンを掛け違えばテロリストか悪魔教団教祖にでもなりそうな男だが、妙な模様のある小さな蛾が死んでいるのを見、悲しむ様な一見不可解な性格だった。そんな性格であるからして、食用とされる動物に対してはよく嘆き泣いた。

どこかが輪華に似ていた。


問題無く大学合格。Kと上京出来る事がやや喜ばしい。

地元を離れられる、実家から出られる。輪華と過ごした部屋,フロア,家。どこを見ても彼女を思い出し辛かった。


ピアノを置ける物件を最初は探した。音大生でもあるまいに。幾らピアノを弾いても、輪華の霊は来ない。

ピアノから離れよう。輪華の思い出から離れて行かねばならない。先に進まねばならない。


一人暮らしになり環境が変わっても、未だクラシック音楽を聴きながらベッドに居る生活だった。

学校に行けば大勢の念が騒がしく、立ち込めている。疲れる。勉強しに来ているのだ。早く卒業したい。


視界は相変わらず半分。薄暗がり。気を抜くと輪華を思い出す。

以前は思い出に浸れるだけでも、幸福に感じる時があった。思い出の中で彼女が笑っていれば、いつの間にか唇の端で笑っていた。彼女が消えてからは、人前で笑う事が無くなっていたというのに。


構内で歩いている細い女に気付いた。気付いたら目で追っていた。

白いワンピース。気配が薄い。

気配が薄い人間は、存在を無視されて来たような人間である。


─倒れるな…

と思った直後に彼女は倒れた。倒れると分かっていたので、淡々と近付いた。

釣り上げられた魚の様だった。唇をぱくぱくと動かしている。時々白目になる。癲癇に見えた。

輪華は倒れたら動かなかった。気絶に見えた。死んだ様に動かなかった。また輪華を思い出す。


その女は2分程度で立ち上がった。人が集まって来ていたが、恥ずかしそうに消え入る声で「平気です」と言った。周りの人間全てに深く頭を下げた。自分にも。ひどく恐縮していた。


「病院へ行こう」と言った。彼女は病院に行った事が無いと分かったからだ。自分が病気なのかも分かっていない。

「一緒に行こう。付き添うから」と畳み掛けた。目を大きくして見上げて来た。リスを思わせる様な、細い顎だった。

また輪華を思い出した。


大学近くの内科クリニックへ連れて行った。

栄養不足で点滴されていた。


心療内科への紹介状が出たが、彼女は行かないと言った。

彼女をSとする。

点滴の間中、付き添っていた。Sがこちらを見る目。警戒しながらも恋に落ちたと言わんばかりの、熱っぽい目。だが鬱陶しくはない。

Sの体型。小動物に似た怯えた目。纏っている病的な雰囲気。左手首に包帯が見えた。カッターで引っ掻く程度の、リストカット。



輪華の代わりにしようと決めた。



Sはそれなりに病んではいたが、“ファッションメンヘラ”に近かった程度だと考える。

何らかの性的トラウマは持っていた。男は好きでないと言った。自分に対しては清潔感がどうの理性的でどうたらと言っていたが、先入観でしかない。

針で手首の皮を縫ったり耳に画鋲を刺したりと、パンクロッカーの様な自傷行為が見られた。

そして拒食気味だった。


いずれも輪華に比べると、軽かった。

輪華が悪夢に魘されて自分と加害者を混同した時の、悪魔を見る様な目。手を伸ばしても激しく振り払われた事。犬か何かから逃げる様に、階段の手すりを乗り越えた事。時たま起こる、行為中の過呼吸発作。それでも無理に続け、意識の無い状態にさせた事がある。不意に髪に顔を埋めただけで、気を失って後ろに倒れた事、等々から比べたら軽かった。


自傷はやむにやまれず傷付けるものであり、遊びで縫ったり刺したりするものではない。自傷行為に移る精神状態は不健康だが、やはり輪華に比べればまともである。

拒食と言っても、食べて良いか何度も何度も訊かれる事もない。飴一つ口にするに、泣き出したりはしない。


Sがこちらに甘え掛かる様になる迄、月日は要さなかった。

手紙を先ず貰った。病院に付き添った事への礼。そして示される好意。丁寧な字で整った文だった。

輪華から手紙を貰ったかの様な、錯覚に陥った。


交際を始めるに当たりSには、輪華の存在について明かした。ずっと囚われている。毎日思い出す。これからも忘れる事はない。彼女だけが一番、大切な異性である。


Sは神妙な表情で聴き入っていた。どうやら輪華を、死んだ恋人だと解釈した様子。あながち間違いではない。正さずにおいた。


Sは次の様な事を述べた。

「思い出の一番は変えられない」「その人になりたい」

「二番で良い」


住んでいた1Rに来る様になった。彼女は実家から大学に通っていた。

食事を作って食べさせた。多くは食べないがスプーンで口に運ぶ様、心掛けた。

Sがして欲しい事、それは再教育。

スプーンや皿はわざわざ、幼児用を購入した。

時には粉ミルクを哺乳瓶に詰め、抱いて飲ませる事もした。食事に不備がある人間、特に女は必ずと言って良いが退行する。


他に特徴があるとすれば、神経質で思慮深くよく手紙やメールを書く、おずおずと遠慮がちだがある部分では、図々しく強情。知的レベルがある程度高い、文系とは限らないが読書好き。性的でないが一度気を許せば大胆。依存的、自身の問題を人のせいにしたがる。母親との関係に問題がある、歳上の男が好き。そんな所だろうか。


それらを好ましく思う男は、一定数居る。単なる性欲処理に使う男は、更に居る。容姿が整っていれば尚更。


Sに性的な意味では、未だ触らなかった。我慢でも何でもない。輪華の影をSに探していた。Sを輪華だと思い込もうと、必死だった。


Sを抱く直前の時期、輪華の写真や動画、音声に漸く手を伸ばした。今迄は伸ばせなかった。

反応はした。到達しないだけだ。どういう事なのか考えた。分からなかった。

病的に痩せた女のフィルムも観た。反応すらしなかった。

悪夢の淫夢は続いた。夢の方が生々しい。


Sは脱がされる事を拒否した。下着、正確にはショーツのみ脱がせた。他は着衣のまま。自分も着衣のままである。

指だけで慣らす事にした。

Sは処女だった。


輪華で慣れていたから、相当な自信があった。

しかしSは輪華程過敏でなく反応も薄く、期待外れだった。殆ど濡れもしない。詰まらない。


……輪華は爪は短くして手を洗ってからにして、そこは痛いだけだ、等々様々細かに要求をした。一人で実演して迄、示す事もした。

ピアノの発表会前に男性用トイレに招かれ、輪華に「今ここで指でして」と言われた。簡単に水洗いした指に鼻を近付け、

「この匂いがついたまま弾いて来て、聴いているから」と言った。

ピアノ教師には、情感が出て来た等と評された。……


やはり輪華しか見えない。思い出しながら思わず、輪華の名前を呼んだ。

しまったと思ったが、Sが喘ぎ出したので拍子抜けした。─何だこの女。


Sは完全なる受身で、充足感が得られなかった。乱雑にすればする程、悦楽を感じる様子だった。

輪華だと思い込むと反応した。

素早く脱がせ目隠しをさせ、浮き出た鎖骨や肩甲骨を舐める。肌の匂いも骨格も違うが、輪華だと思い込んだ。輪華の名前を呼び掛けている限り、Sは輪華に成り切った。


日常では君付けで呼ばれていた。その時は呼捨てさせた。輪華は高良君とは呼ばない。


病んだ者同士が病んでいるなりに、抱き合えた瞬間だった。輪華だと思い込みながらの絶頂感は、意識の片隅でSだと認識している為か直ぐに冷め、引いていった。


二度目に試したが、SをSとして抱くと上手く反応しなかった。SはSでパニック発作を起こした。心拍が速くなりだらだらと発汗した。明らかにパニックディスオーダの症状の一つであり、Sには治療が必要だと考えた。


Sはこちらに基本的には従属していたが、精神科や心療内科の受診を嫌がった。

それなりに頭の切れる女であり、多岐に渡る経営学の手法を表を用い、会社毎の成長段階に合わせ理路整然と分析し戦略を示せる。

話をする分には面白い。友人であれば良かったのかも知れない。












20 years old
20 years old

20 years old


年末。地元に戻る。成人式に出席する予定が無かった為、両親へ贈ろうと写真のみ撮る。


街に出ていた。学術書が豊富な書店に寄り、購入して出た後だった。

小さな黒い影。

霊を6体も連れて居る。そのせいで目に飛び込んで来た。

目を疑った。

─輪、華…


折れるかという位に細い、細い腕を強く掴んだ。霊が散って行く。それでも輪華は未だ無表情でこちらを見なかった。名を呼んでいるとゆっくりと見上げて来た。目の焦点が合っていない。薬でもやっているのかと思った。

数秒間経ってから全身を撫でる様に、見られた。「高良だ」

ああこの声だ。この声だった。この声で呼ばれていた。精霊と喋っているかの様な心地、電池を入れたら人形が喋り出した感覚。


以前よりかなり痩せていた。何があったのか。どうやって歩いているのか、棒の様な脚。そっと頬に触れた、続いて髪に触れた。色を抜いた髪。艶がない鳥の羽の様に頼りない感触。頬は頭蓋骨の形にへこんでいた。顔色は蒼だった。


シルエットからYohji Yamamotoのコートだったが、男物だった。誰の服を着せられているのか。

「時間あるか」と聞いた。輪華は何か考えている様にも見えたし何も考えていない様にも見えた。軽食が摂れる喫茶店に連れて行った。

輪華は昨日も会ったかの如く、何の感慨も持たぬ様子であった。責める気にも、問い詰める気にもなれない。只、今にも消え失せそうだ。

「コーヒーがいい」と焙煎のブラックを指した。メニューの中に一応は、目を通した様子。

何か食べろとしつこく言い続けると、投げ遣りな目でベリーのパフェを指差した。

以前の輪華には無い、鋭い目線。触れれば切れそうな空気を発していた。


連絡先を渡した。携帯にその場で登録させた。輪華は現住所も電話番号もメールアドレスも勤務先も、きちんと教えてくれた。

今迄の事情を聞ける雰囲気ではない。

反対にこちらの近況も聞かれず。興味が無かったのかも知れないが。


コーヒーとパフェが運ばれて来ると「食べなきゃ駄目?食べて良いの?」と尋ねて来る。

急にたどたどしい、昔の輪華の話し方になった。そうだった、この声でこの話し方で尋ねて来るのだ。何度も。


パフェを食べさせた。口元まで運んでやったが食べず、数口目を押し込んだら泣き出した。泣くとやや頬に赤みが差した。

輪華は涙だけを滑らせて泣いた。黙って見ていた。気まずかったからではない。


コーヒーは飲まなかった。「もう帰るね」と彼女は言った。

財布を出したので必要無いと言った。財布が彼女の選びそうもない派手なブランド物だった、ダイヤの付いた細身のネックレスをしているのも視界に入った。

男が居るのだなと思った。輪華が自らこうした物を買う訳がない。

タクシーを呼ぼうかと申し出た。「歩いて帰る」と彼女は言った。教わった住所は確かに歩ける範囲ではあるが、そんな体で歩けるのかと心配した。

終始笑顔は無かった。


実家に戻り、母親に輪華に会ったと教えた。驚き、喜んでいた。父親も同様だった。

翌日、迷惑かとは思ったが輪華が住んでいるアパートに向かった。メールを事前に出しておいたが、読んでいないのか返信は無かった。

迷惑と言うよりは困惑した顔で、輪華は「人が来ているの」と言った。小声。囁き声。


学生が住む様な小さな部屋。狭い玄関に不釣り合いな、磨かれた男物の革靴。但し若い男が選ぶ様なデザインではない。玄関から奥の部屋は見えなかった。戸が閉まっていた。

気配を探る。老人の様だ。

アパートの駐車場にこれまた、不釣り合いな車。

ポルシェ911だった。およそ1500万程度。



輪華は老人の愛人にでもなったのだろうか。

帰り道で考えた。それ以外考えられぬ。

胸が悪くなる感覚だった。彼女の勤務先は古美術骨董品店。そうした店に足を運び、飯の種にもならない様な品々を蒐集する変り者の老人に、彼女も蒐集されたのだろうか。


メールは返って来た。「今日はごめんなさい」といった内容だった。

メールすれば返って来る。毎日の様に送っても律儀に返って来る。

電話も出来た。これ迄に比べたら天と地の差である。また繋がりが出来たのだ。


しかし二人で抱き合って眠っていた時間、あれを再び呼び戻すにはどうすれば良いのだ。


輪華を買い取れば良いじゃないか。

毎月幾ら貰っているのか知らないが、仮に愛人の相場が月50程度としよう。輪華がそれを受け取っていると仮定して、その倍額を提示すれば良いのではなかろうか。


普通の仕事では無理だ。就職先候補は堅実に生きるには良いのだろうが、せいぜい中の上の生活でしかない。

父親の会社を継いで拡大するか。駄目だ、父は利潤第一ではない。やり方が違えば父の会社に入っても衝突する。更には父には申し訳ないが、彼の事業に興味が無い。


元手300程度だが、資産運用でもするか。

海外投資なら。


短期売買で勝ち続けられるか。非現実的だ。


Sの存在が頭から抜けていった。輪華の事を全身で考える様な時間が続いた。







21-22 years old


大学の勉強は等閑、片手間になった。

投資,投機に集中していたが更に集中していたのが、輪華とのメールや電話である。


ほぼ毎日メールのやり取り。長文を送れば同程度の文量で返って来る。

電話が出来る時を尋ね、電話すれば昔の様に話が出来る。

彼女の事情があり一時期距離を置かれただけであり、これは遠距離恋愛なのではないか、そうに違いないと勘違える位には輪華は期待を持たせた。


彼女は働きながら母親と、義理の父の祖母の世話をしていた。母親はどんな理由か知らないが煮立った湯船に落ち、大学病院にて皮膚移植手術を二度もしていた。自殺でもなく自傷でもなく他者からの被害でもなく、事故との事であった。

彼女の身の回りにはそうした、おかしな事がよく起きた。強力な霊障、母は自らの身を差し出す事がある、といった輪華の説明には理解が追い付かない。


自分は霊の存在を幼少から知っており、信じる信じないの話でなく例えば「ここに水の入ったカップがある、あそこに窓から覗いている女の霊がいる」といった具合に認識せざるを得ないものだ。只そこに在るもの、風が吹く雷が落ちる、そうしたものと同等だった。


輪華の霊感についても同じ感覚を共有しているだけだ。同じ霊を視て隣を通り過ぎるのみ。話題にも上らない。

輪華の母親の仕事、飲食店で働く等の仕事でなく「御祓」とされるものがよく解らない。負傷するのであれば、それは失敗ではないのか。

輪華は身に傷を受けて、成功なのだと言った。それで鎮まるのだと。どうだって良いが輪華がその仕事をせぬ様、願うばかりだった。


義理の親の実家に何故出入りせねばならないのか、元凶も住んでいる家に何故寝泊まりせねばならないのか、彼女の自己犠牲感覚を詰りたくなった。

精神に傷を負うと、更に同じ傷を付ける事で安心するのかも知れなかった。性的虐待経験者が風俗嬢になる、PTSDの症状がある兵士が傭兵になり戦地に赴く、それで安心する。

輪華も同じではないか。まだ義理の親に関わり続け、ましてや手助けし外ではどうやら愛人契約でもしている風情。


輪華は高校中退後の生活について、教えてくれた。人事の様に淀みなく話した。近隣の市に居た事、一人で働き暮らしていた事。

「気が狂う位寂しかった」とも言った。

お前のせいで自殺未遂した、とは言えなかった。輪華は相変わらず“不幸な女”であり彼女自身が未だに、否昔より死に近い場所に居たからだ。彼女の自殺未遂については、感知していなかった。


拒食症の診断が下り、入院を勧められているが嫌だ、病院では治らない、働きたいのだとか細い声で言う。

これは一度、大学を休学するか。はたまた辞めるか。一緒に居てやるべきではないか。父の会社に入り結婚し、堅実に共に暮らすべきではないか、

先走って考えた。想像しただけで目眩がする程、欲する未来。

輪華に何と切り出すか考えた。彼女は自発的には贅沢をしていないが近くに居るだろう男、例の老人に囲われている。おそらく金でなく情の面で。

老い先短い老人だ。輪華はそうした点を異様に考慮する。

金さえあれば良いというものでもなかった、有っても困らないが。


先ず輪華に「未だ付き合っている積もりだ」という観点から話して行った。彼女は黙って暫く聴いていた。

「でも高良。彼女いるじゃない」

欠片も告げていない事を、輪華はいっそ冷えた声で言う。驚いた。前より鋭くなっている。

違う、お前の代わりだと言いたかった。言おうとした。

「高良は」輪華が一旦、息を吸い込んだ。その音すら耳に心地良い。他の人間に一切抱かない感情と、感覚。名前を呼ばれると心拍数が増す。

「高良は痛い事も苦しい事もする。私は怖いなと思っていた。体が辛かった。後から泣いたけど高良はそれを、見て笑っていたよね」

…………………………………………………………


またメールするね、と言って輪華は通話を終えた。辛うじて糸は繋いだまま。しかしその糸は友人としての糸。

痛い事とは、輪華が望んだ事じゃないのか。

苦しい事とはどれだ。消える前の時期か。全て悦んでいなかったか。

輪華が泣くと嬉しい、それは奇妙な感覚かも知れない。影響したいだけだ。彼女に。

怒りは感じなかった。何か変だ。輪華の精神はズレている。分割されている。

誰にでもある様なズレではない。人により対応が変わるとか本能的になっているから、日常の様子と違う等のレベルじゃない。


輪華が立ったまま茫然自失の状態だった姿、夜中に急に半身を起こし機能停止したかの様に、応答も意識も無かった事。あれらと関係しているのか。していないのか。


時々別人の様に振る舞い、記憶が無い事。あれはどうだ。病気なのは間違いない。当たり前だ、真っ当な精神状態で生きて来た訳がない。



翌日、輪華にメールを送った。他愛無い話題だ。彼女は電話での話が無かったかの様に、無邪気な返信をして来た。


手に負えない面倒な女だ、これでは恋愛等出来ない、まして結婚なんて不可能だとは全く思わなかった。輪華しか居ない、彼女でなければいけない。理屈ではない。


近くに居ても離れて居ても実体が有っても無くても、振り回される。振り回されたい。更に振り回して欲しい。


輪華の何らかの一言で、鳥肌が立つ程の快感が這い上がって来る時があった。メールでもそれは起きたがメールよりは電話、発声と共に在る言葉だ。多くは夜。脈絡は無かった。


「今ね、高良の匂いがしたよ。話してるからかな」/「高良の指の感触がするのよ、掻き混ぜる様なの」/「私も夢を見るよ、自分で首を絞めてる時がある」/

エロティックに吐き出された言葉ではない。寧ろ無感情な発声。だが輪華の話し方は時に舌足らずになり、甘える様にも聞こえた。

その様に自分が、聴き取りたいだけなのかも知れないが。


鉄琴の様なグラスに氷を落とした時の様な、白い霧に音があればその音の様な、高いのだか低いのだか分からない声。

透明なのか曇っているのか、思えば初めて聴いた時からもっと聴きたかったのだ。普段の喋りよりは歌声、若しくは女としての声。


通話の録音を始めた。輪華は初回から「あれ、ザーッて砂の音がする。砂時計みたいなの」と言った。機器の不調ではない。「高良の念の音ね」と言った。



さて、日々輪華に彩られているのだからSは鬱陶しくなりつつあった。

なりつつあったがあくまでもなりつつあるという過程であり、未だ成ってはいない。

Sを輪華だと思うと興奮する、何故ならSと会う前に輪華と電話をしていたからだ。又は輪華の声を再生して聴いていたからだ。


輪華の体を自分の体が記憶しており、忘れる事は無い。だがSの体にも馴れて来ていた。

Sは能動的でないからその点は、残念ながら愉しめない。

望まれているのが加虐なので疲れもする。そう、加虐は疲れるのだ。


人の体を縛って行くには、労力が要る。緩みが出れば出た所からやり直さねばならない。Sは大抵眠っていた。縛っている間は眠っている。安心すると言う。


ロープ,革紐,手錠を始めとした拘束具。様々試したが本当に拘束したい対象はSでなく、輪華。輪華の肌に合わせた色、質のロープ。紅色が映えるだろう、彼女の肌は雪の色と変わらない。故郷の夕方、或いは夜明けの薄青い白さの雪景色。あの色だ。蒼白。


Sを縛る作業は作業であり、紅色のロープを見て輪華を想う方が官能的という、我ながら崩れた嗜癖になって行った。異常性愛に足を突っ込んだ時期が早過ぎたのだ。


Sには純粋な支配欲と言うより、実験欲が有った。

輪華にされた様に、Sに自慰を禁じた。女だからか余り難易度は高くなかった様だ。すれば分かる。輪華でない女なら読める。

市販薬を使って目の前で排泄させた。性欲と排泄をコントロールされると、人間は精神が破壊される。


崩壊、否半壊した状態でSは完全な支配下にあった。しかし支配とは容易に逆転する。全力でSはぶら下がって来た。

「高良君が居なければ死ぬ」「高良君が居ない世界なら壊したい」この様な事を言っていた。

Sを部屋に泊める事は無かった。人と一緒だと寝れないと方便を使った。

輪華としか、眠りたくない。



Sの移動代、食事代、服飾費用等は面倒を見た。電車やバスはパニック発作が起きやすいという事だったので、タクシー代になる。

免許は取ってあるが、未だ車を所有していなかった。


投機での収入はあった。仕送りは平均的な額である。Sが欲しいという物、貴金属や化粧品、衣類やバッグ等は買い与えた。

Sは比較的裕福な家で育っていた。与えられる事が当然、という顔をしていた。


現金も渡していた。タクシー代のついでである。毎回1-2万でしかないが、好きな物を買えば良いという程度の気持ちであり、猫に餌をやる様な子供に飴をやる様なもの。大した考えからではない。


Sと出掛ける時は即ち買い物の時。

Sが好んで買うブランドの服。彼女が試着室にいる間、店内に目を走らせた。Sでなく輪華に似合う服を探していた。



…実家のカーテンを替える際、輪華はレースのカーテンを体に巻き付けて「ドレス」と言って笑っていた。無邪気で幼い表情。…

思い出すだけで目頭が熱くなった。あの純度。他に類が無い。

Sと付き合う事に疲れて来ていた。



これは駄目だと思う機会が訪れる。

Sがホストクラブに通い出したのだ。切っ掛けは知らない。興味本位だろう。或いは自分との付き合いに、Sもストレスを感じたか。


今後の予測は簡単に立つ。借金してでも金を注ぎ込むだろう。親の金も、こちらの金も遣い込むだろう。Sは水商売が勤まる程、器用ではない。面倒な事になる。



輪華と再会した事を明かし、別れようとSに告げた。

「二番で良い」とまた言う。たとえ輪華と結婚しても、二番目で良いと。


Sに対し経済を学んでいるにしては、行動が愚かだと指摘した。それも直すと言った。

─直らないだろう。

改善される事はない。

先に結果が分かる。


ともあれSを甘やかして来たのは自分であり、情も多少は残っていた。

別れを告げてからも帰宅すると、部屋のドア前にうずくまっていた。冬だった事もありどうにも不憫になり、また可愛らしくも見えてしまい部屋に入れた。これが繰り返された。


Sが部屋に居ても、輪華と電話する事があった。輪華は直ぐに察した。

「そこに女の子が居るでしょう」と言った。

「居るけど友達だ」と答えた。輪華は探る様な沈黙を作った。読まれているが、別に良い。読めば良い。


Sは友達と言われた事について、怒りを示してから泣いた。「二番で良いんだろう?」と尋ねた。二番は友達ではない、との事。

二番に苦言を呈される筋合いがあろうか。

二番とは、セフレか愛人だ。不倫は恋愛に入る場合もあるが。


セクサロイド、等身大の性具について調べる。輪華の代わりになるなら、人形の方が面倒がなさそうだ。幸い実家でもない。高校生の身分では人形に40万はどうかと思ったが、今なら可能。100も上乗せすればオーダーメイドも可能。


輪華と電話している時には、人形では駄目だと思う。声が無いなら輪華ではない。 無反応なら輪華ではない。



就職先内定を機に、Sが来る部屋からは引っ越す事にした。








23-25 years old


引っ越し先はオートロックにした。これでSは入って来られまい。

しかしメールと電話が引っ切り無しであった。携帯番号は変えた。メールは迷惑メールフィルタを設定。受信件数がある日は600、翌日は1200等と目を疑う数字になっていた。


郵便受けに荷物が入っていた。手紙の類は目を通さず捨てた。

荷物の中にSの自慰動画があり、普通は衝撃を受けるのだろうが只観てから廃棄した。彼女は動画内で君付けで呼び掛けを行っていたが、これが呼び捨てなら輪華の悪戯動画と脳内変換して、未だ所持していたかも知れない。

狂っていると自分でも思うが、狂う事を自認すると気楽だ。狂っても生きていけるのならば、人は狂った方が良い。生きる為に狂うのだから。



卒業後、本社配属であり非常に仕事が楽しかった為、ある程度意識の切り替えが可能になった。毎時間女の事しか考えなかったら発狂する。


当時の仕事内容は激務とされていた。血便血尿に悩む同期は何人も居た。鬱で脱落する者もあった。弱い人間は淘汰される。

通常5時起床、日経に目を通す。担当業種記事に対しコメント発表準備。

オフィスには7時迄に入る。7:45から始まるモーニング〔ミーティング〕にて意見,見解をトレーダー,セールスマンへ発表。ミーティングはほぼ英語。

東京時間での夕暮れにロンドンのモーニングミーティングが有る。カンファレンス〔電話会議〕と称し発言する。英語必須。

夜はNYとのカンファレンスが有る。昼間は担当企業に取材。機関投資家のファンドマネージャーへのプレゼンテーションに当たる。

夜間レポートを書く。決算期は26-27時まで仕事。リスクが有ろうとも、市場へ投資家を引っ張り込む。手数料を落とさせる役割を担う。特定の銘柄に対し“買い”“売り”の意見表明が出来なければならない。

推奨は投資判断の結論。切腹覚悟である。当たらなければ強烈な攻撃に遭う。莫大な金が動くのだから、ストレートに暗殺されかねない。売り推奨したならば民間のSPを雇った方が、最早良いレベルである。

事実キックボクシングを始めた。怪我が厄介で3年程で辞めたが、護身が叶えばその程度で良い。若い時にやっておいて良かったと思っている。



輪華とは駆引きする事にした。

連絡を最小限に留めた。押して駄目なら引く。

しかし功を奏さず。メールをしなければ返して来ず。たまに電話しても近況を明るく伝えて来たり、こちらの話を長時間であっても、聴き入ってくれるだけである。

聴き入ってくれるだけ、とは正しい表現ではない。休みの前日は夜中、5時間程も付き合わせた。通話後は早朝。

輪華は余程具合が悪くない限り、愚痴だろうが弱音であろうが聴いてくれていた。



つまり駆引きの積もりが駆引き成らず、自分が負けて不安定となっている事になる。

これではいけないと思っていた。地元に戻れる様、職場に伏線を張り始めた。仕事自体はやり甲斐が有るが、別に辞めても良い。

とは思えど完璧で在りたかった。機械じゃあるまいし厳密にはミスも出るが、周囲がミスと捉えるミスではない。



同期にやたら要領の良い奴が居た。プライベートでもそれなりに付き合っていた。

彼(Nとする)は極めて女癖が悪かったが、「お前とは同じ臭いがする」と言われた。不当な評価である。


彼の彼女の紹介で、Rという女と会う。

Nに「あれ系の女が好きだろう」と言われる。Sに酷似していたが、もう少し周りと上手くやれるタイプであった。1歳上だった。

会社勤めが出来る女と言える。


別にRに何の怨恨も無いのだが、どうした訳か一人の女が破滅する過程を見たくなる。

破滅と言うと少し違うのだが、自分に夢中になり狂って欲しいという願望を抱いた。Rにそれなりに、惹かれる部分はあったという事になる。


外見に輪華の影を映せれば、それで良い。面影を重ねたい。バレエ経験者であるRは、細身だがしなやかな体つきをしていた。特に脚が綺麗だと最初に思った。

メンタルがやや弱かった。隙が有るのだ。隙の有る女は艶がある。Nの見立ては正しい。


その後もNから立て続けに女を紹介されたが、やたら遊び慣れた女であったり分かり易く男好きする女であったり、適当だった。

いずれも絶頂は得られなかったが、挿入は可能だった。仕事の疲労感を方便に、相手を傷付けぬ様配慮した。



駆引きの材料としても、Rは使えた。

輪華に「気になる人が居る」と告げてみた。

完全に興味のみで食い付いて来た。反応だけ見るに、自分に気が有る様には思えなかった。



状況が目まぐるしく変わる日々だった。

仕事は忙しい。Rとは初期は慎重にしていた。3ヶ月は手を出す積もりがなかった。

輪華だと思い込まねば、しくじる可能性がある。Rには脚への愛撫しかせず、なかなか際立った偏向振りだが彼女は勝手に焦れていた。


輪華は輪華で、何故か自分と同業者と付き合い始めた。当て付けに思えたが、思い込みなのだろう。

輪華の男関係が突如として四分五裂になっていた。

彼女は義理の親がギャンブルで借金持ちであった為、スロット等の賭事を毛嫌いしていた。それにしてはスロプロという賭事で食っている男と、付き合い始めた。金融系の男の後である。


何れも長続きせず、胸を撫で下ろした。しかし他の男とよくやるな、しかも自分にそれを言う意味が理解出来ないと思った。苛ついた。自分の事は棚に上げている。


更に今度は「あのね、好きで好きで好きな人が居るの」と来た。次は脳外科医との事。

スロプロはどうした?と聞けば「何かよくわかんないけど、別れた」と言う。


輪華は男と別れる際、黙って消える方法を執っているらしい。最悪である。誠実の欠片も無いが、そもそもが誠実な付き合いでなかったのかも知れない。


自分に対しても自然消滅狙いだったではないか。消滅させる気は無いが。

この「何かよくわかんないけど」の人物は、聞き出すともっと居た。画家だの画商だの古物商だのその客だの。


輪華は19歳から2年程、拒食により月経が無かった。その間は誰とも寝なかった、とあっさり言った。

通話中、ライターの点火の音がしたので軽くショックを受けた。

輪華が喫煙する光景は、小学生が煙草を悪戯している光景と遜色無かったのだ。

「前付き合っていた人(スロプロ)が吸ってたから」との事。これだから不純異性交遊は戴けない。


盆〔夏季休暇〕暮れに地元に帰り、会ってはいた。友人を交え飲んだ。それだけだったが、飲む際は彼女と同じ煙草を吸う事に決めた。

因みにマルボロのメンソールだが、輪華は「男がマルメン吸うとインポになると言うね、ふふ」と言った。誠に愛らしい声で、確かにその様に言った。


怒りより先に、何をどこ迄知っているのかと焦った。それより更に先に、輪華の笑い声に耳を澄ませていた。重症である。


相変わらず痩せていたが、20歳の時よりは回復した様に見えた。会えばその場の空気で凭れ掛かって来たり、腕に触れて来たりした。

視界が一瞬揺らいだ。それ位気持ち良かった。それだけで。


場が乱れている際、会のゲームに乗じて氷を口移しした。驚いていた。が、しっかり応じてから氷を飲み込んでしまっていた。まさか喉に詰まらせるとは思わず、背を叩いたら激しい痙攣を起こした。


治っていない─

と思っただけでなく、後日電話したら輪華でなく男が出た。

この時は誰だと混乱を来した。輪華の携帯に掛けたのだが、当然の様に応対していた。「どなたでしょうか。彼女は今休んでいます」と言われた。

知的な物言いだった。輪華が恋をしているという脳外科医かと思ったのだが、脳外科医は25歳上である。それよりは若い男に思えた。


更にその後輸血した、という連絡も有った。怪我をしたと言っていた。輸血する程の怪我とは?

尋ねたが「わかんない。切り傷」と言った。

その数日後、車にぶつかった、と連絡。気を引きたくて大袈裟に言っているのかと思ったが、共通の友人に聞くと人身事故だと言う。



彼女については、不可解な事だらけだった。





さてRとの関係であるが、なかなか輪華を投影出来なかった。自己催眠の修行が足りぬ。

Rにも輪華の存在を明かした。しかし既に自分に夢中になっている時期であり、やや交際スタートと前後する。

誠実性に欠けるが、初めからそんなものは無かったのだろう。



Rとは実を言えば、一般的なセックスという形を取らなかった。Sも一般的ではなかったのだし言ってしまえば輪華とも一般的では、断じてないが。


Rには快楽を植え付けたら女はどうなるのだろう、という興味に始まり興味に終わった。

性具又は指を用いた。どの箇所をどの角度でどの速度で突けば良いのか、どの程度快楽には耐久性が有るのか。

体力や神経の鋭さにより、個人差は有れど目安を知りたかった。

Rの体を輪華に見立てた。それはそれで愉しめた。


普段のデートは、一般的なカップルの作法を踏んだ。デートすべき場所も食事の場所も、イベント毎のプレゼントもマニュアル通りである。

Rは車内で下着を脱ぎ出す様な女になった。

最終的に、Rは上司と不倫を始めた。謝罪されて別れた。何故、ちゃんと寝ないのか訊かれなかった。輪華を引き摺っていると解っていたのだ。

Rは道具の快楽よりも人体の温もりを求めた、という事だろう。




同時期Nが死んだ。過労死である。

有能な男だったのか、心身を酷使した以上そうでもなかったのか。

Nの為に11年振りに教会へ足を踏み入れた。

そこで泣いた。





26 years old
26 years old

26 years old

人事に来ないかと、上の人間に誘われる。


Nの他にも急性錯乱に陥った後輩、そして自殺した同期が居た。先輩に当たる人間、この仕事に慣れている筈の男が仕事しながら脱糞に気付かす、そのままロボットの様にオフィスで仕事を続けているのも目にした。


人事に来れば安泰だと、強く誘われた。しかし本社を離れられなくなる。或いは他の大都市か。

都会は何でも有りだ。闇に紛れる様に溶ける様に、生きる事も出来る。

輪華に会いたかった。会って話せるだけでも今は、一先ず生きて行けるだろう。


実家の両親は健在。強いて言えば母親が喘息持ち、その程度である。

輪華と結婚してしまえば、彼女の母親の面倒を見るという体裁を整えられるのだが。


親の体調が芳しくないのだと、取り敢えず入社時から少しずつ布石は打っていた。さもなければ地方勤務は叶わない。



輪華の様子が非常に気になっていた。

彼女の母親は今度はクモ膜下出血で手術しており、その主治医と輪華は付き合っていた。

当然不倫である。脳外科医は50手前、とある大病院の医局長であり妻子も有る。


輪華は容姿で男を落とすのでなく、その独特な話の内容、突飛な言動で相手を先ず釣り上げるらしかった。


脳外科医には手紙を書き、母親の診察時に看護師が居ない時を狙い、デスクに向かう彼の耳元で「先生」と呼掛けながら手紙を手渡したと言う。それだけなのだ。


25歳下の少女の様な女から気の利いた文章の手紙を貰えば、思秋期の男は一溜りもないかも知れない。冷静な判断力を身上とする、理性で生きている大人をよくもまあ、巧くたぶらかすものである。

いざベッドに入れば奇妙な手練手管を駆使しているのであろうから、自分が脳外科医の立場ならば身動き出来なくなるであろうが。



輪華はこの医師の勧めもあり、大学病院であらゆる心理検査を受けていた。

半年程で解離性障害の診断、更に一年以内に解離性同一性障害の疑い、二年程でその確定診断となり障害者手帳の発行、障害年金も下りた。

後に統合(回復)し手帳を返還するのだが、当時は二級の診断だった。一級は寝たきり。二級は日常生活全般に於いて、他者の介助が必要となる。

それでも彼女は働いていたが、非常に困難な日常だった筈である。

丁度、古美術店を退職し大学に通い出し(注;輪華は旧大検を取得している)塾講師や家庭教師の職に就いていた。



「お金が急に減ったりする、カードは何でか大丈夫」「お部屋に小さい子のおもちゃが突然あるのよ」「知らない男の人から電話が来る。しおりちゃんって呼ばれててさ。間違い電話?電話のナンパ?」

この様な話は、数年前から相次いでいた。元から彼女の身辺は不穏だったが、明るみに出つつある時期だった。



解離性同一性障害とは、分かりやすく言えば多重人格。記憶を無くす。その間は別人になる。気付けば他の街に居る。酷ければ別人として社会生活を営む。

夜間に別人格が外出する事もある。記憶は無い。即ち余計な体力が失われる。金銭感覚は各人格により差が有る。



話を聞いて納得はした。しかし大学で精神を弄り回されておかしくなったのではないか、と気を揉んでいた。



心理検査は何種類も有るが、それだけでは信憑性に欠けるのではないかと思っていた。

決め手だったのはIQであり、輪華は平常だと68-75という信じ難い結果だった。

これは8歳-12歳程度の知能であり、日によって多少バラつきはあるものの軽度知的障害、自治体によっては知的障害者と認定される。



輪華の学生時の偏差値は71-72だった。

当時、自分の偏差値が73-75程度である。輪華は賢い女だと思っていた。辞めたとはいえ、進学校に通っていた事実。それで輪華に知的障害は無いと、一旦は判断された。



しかしIQは、何度検査しても低い。話し方や目線、表情も仕草も幼い。断じて年相応ではない。輪華は毎回、真面目に検査を受けていたと言う。



担当医はそこに着眼し、輪華の話し方や歩き方、筆跡や仕草が違う際(人格交代が起きていると仮定)、IQを調べた。ある時は112-121、平均よりやや高め。ある時は検査にならず、またある時は65以下。またある時は130より上。

言動の異なり、記憶の異なり、運動機能の異なり。

医師が4人ついての確定診断、障害者認定に当たり更に2人の医師の見解。そして断定。



興味深い話だった。治療中の彼女に会って、自分の目で見極めたいと思った。無論だが側で支える積もりだった。



思惑通り故郷に異動となったが、今度は海外出張が多くなる。輪華の混乱は苛烈を極めていた。

怪我が多い。暴力的な人格が居る。体中を切り裂く。自傷の域を越えている。動脈が狙われる。注射器で血を抜く。傷が生き物の口の様に開く、縫われる。

河に飛び降りる、海で入水する。もはや自殺行為、否、殺人未遂。自身を自身が壊す。



痴漢なのかナンパなのか又は彼女の中の人格と、交際していた男なのか何なのか判別出来ないが、気付いたらその男を蹴り飛ばしていた、と輪華は言った。

その男の件は、彼に不利な点があったらしく警察沙汰にもならず有耶無耶になったのだが、彼女の手は話をしている際に激しく震えていた。ひどい怯え様だった。



ある時は二週間程入院していた。見舞いにも行き、病院の“自助グループ”なる集会にも付き添った。

輪華に心を病んだ人々の集まりは、合わなかった。彼らは真摯な聴き手、共に自らの事の様に号泣してくれる彼女に、強く依存した。何人も何人もが。



解離性同一性障害という珍しい病に、興味のみで近付いて来る“患者”も居た。見た所、奴らは健常者であり病気の振りをしている甘えた人間に思えた。



自助の集会で人々に取り囲まれた輪華は、パニックを起こした。側にいた自分に抱き付いて来た。

輪華を好きだとか愛しているの感情以前に、守り支える事、離れられない事を再認識する。

家族の様な親愛を抱く一方で、どうしても“女”としか思えない。




主人格の輪華は、至極真っ当だった。話をしていれば昔と同様。楽しい。安らぎだけをくれる。


ある晩、電話で「10代から単独では抜く事が出来なくなった、お前が原因だ」と告げた。


輪華は驚いていた。強力な呪いを掛けておいて、忘れていた訳だ。呪文を発しておいて、それは無いだろう。

「ごめんなさい、どうしよう」と彼女は泣き声になった。「解放してくれ」と畳み掛けた。泣いてくれれば良い、その程度の気持ちである。泣き声だけ聞けたので、満足した。

だが。



以下、空気が突如として着色した様に変わる。輪華の声質が急に通る様になっている。か細い声、囁き声ではなくなる。録音してある。




「私が今から解放してあげる、ちゃんと手でするのよ」

と言い出した。誰だ、これはと思う暇がなかった。

「高良。憶えてる?」金属音の様な声だった。耳障りでない金属音。

 ……間。


「憶えてるよ」かろうじて答える。喉が急に渇く感覚。輪華の魔術が始まろうとしている、否始まっている、逃げられないと思った。


「私は高良の形を憶えているのよ。好きよ、高良」

ずっと聴きたかった言葉だった。真剣に言っていると分かった。輪華は一音一音、しっかりと発音した。

「私としたい?」


……間。

「したいよ」


また、かろうじて答える。輪華は淡々と呟いている様なのだが、ゆっくりと呼吸音を響かせた。

「じゃあ、して。視ているから。まだ触ってないでしょう?舐めてあげるから。ね。私がそこに居て、隣に居て、高良に唇を付けているのよ。分かるでしょ?高良が好きだから、いっぱい愛してあげるの」


自分では、何もしていなかった。本当に輪華の舌の感触、温度があった。

彼女は、唾液での効果音を作り出しているに過ぎない。とんでもなくいやらしい音だと思った。


「…高良。ほら、いいよ」ひどく優しい声でしかなかった。


彼女の架空、違う、確かな感触に身動きが一切出来なかった。一切手を使わず何の摩擦も無く、脳が揺らぐ様な快感だけが素早く走り抜けた。


「ね。大丈夫になったでしょ」

輪華はいつも通りの話し方に戻った。


彼女が小学生の頃から、この様な通話のみで男を操る風俗を親にやらされていた事を急激に思い出した。

その仕事をさせてしまった。

解放してくれと要求した事を、後悔した。同時にもう一度、体感したくなった。



次に会った際は、自然に接した。輪華もそんな事は無かった様に接して来た。


彼女の通院の他に映画や、共通で好きなアーティストのライブなどへ連れ出していた。その日は書店を梯子し、何か食べられそうな物を食べさせようと思っていた。

彼女は昼間の誘いならスカートだったが、夜であればパンツスタイルだった。


助手席の細い脚に目を落とした。ミニスカートだが白いタイツを履いていた。

絵画のモデルのバイトを単発でしていた彼女は、特に抵抗がないのか写真はよく撮らせてくれた。昔から彼女の写真だけは撮っている。


その時も撮らせて貰った。写真を撮らせてくれる。男に。期待しない方がおかしい。脚を撮らせてくれるのだ。普通ではない。ましてや、あの電話の後。


「やり直さないか」と言った。輪華はじっと手の爪を見ていた。

そして泣き出した。声を上げて泣いた。身を切られた様に泣いた。

答えをくれなかった。



苛ついた。自信は有った。直ぐにその自信が揺らいだ。

強い悲しみも覚えた。冷える様な静かな衝撃も覚えた。

電話では好きだと言ったじゃないか。戯れ言だったのだろうか。

病気があるから面倒を掛けたくない、との意味かも知れなかった。そうであったと信じている。支える、助けるとは何度も言ってあった。




出張中は会えない。貴金属、靴等は近い場所に居る男から贈るものだが、それらを土産にした。

輪華は受け取ってくれだが、貴金属は着けてくれなかった。靴は実用性があるからか、仕事でも履いていると言った。


輪華は脳外科医からも様々な物を贈られていたが、やはり使っていなかった。相手にねだった物は唯一冊の、児童書だと言った。



脳外科医の学会の為、時に東京について行く彼女を憐れんでいた。

彼女は只、ホテルの一室で待っているだけなのだ。そこから出ないのだと言う。脳外科医とホテル内のレストランに行く、バーに行く、その時だけは出る。


相手は多忙だった。地元のホテルであっても相手に病院からの呼び出しが掛かれば、タクシーで帰される。只の人形である。

いずれ相手は輪華を捨てる、そうしたら拾う事にしよう。それを待っていた。




輪華に避けられた為もあり、彼女に依存していた自助グループの女に近付いた。

これをEとする。2歳上だが、知的障害があった。精神年齢は小学生程度。


外見はかなり整っていた。騙されてAVに出ていた様な女だ。現在は飲食店の障害者枠での雇用、皿をひたすら洗うという仕事をしていた。

両親に守られ、実家で暮らしていた。


Eの手が荒れているのが気になり、自治体の職業訓練に参加させた。Word,Excelについて学ばせた。

学校まで送迎していたが、行きたがらず幼児の様に床に転がって泣いた。ともかく訓練は受けさせた。


講師に連絡先を渡してみたり、何故か居酒屋に入り込んでナンパ待ちしたりと、行動の意味が分からなかった。意味はないのか、淋しさ人恋しさか。


善悪の区別はついていない。店に置かれた物をそのまま、持って出たりする。無事購入出来ても、購入後に購入した事を忘れて放置。

公園等のベンチに置き忘れたりする。


会話は成り立たないが、ひたすら純粋だった。ゆったりと喋る。一緒に居る時はぼんやりと過ごすだけだ。


キスはしたが、それ以上はしなかった。しかし彼女の口内に、指を挿れるのが好きだった。

人間は口を閉じられないと唾液を垂れ流すが、その表情が見たかった。Eはそれでも美しい顔をしていた。性的な事とは思っていなかった。



Eが会社に来て居座る様になり、警察が呼ばれた。彼女が備品を破損した事もあり、措置入院となった。

Eの両親に謝罪された。それきりだ。Eの父親は「うちの娘は貴方とは釣り合わない」と言った。


輪華は、Eちゃんは高良が居れば幸せだったんだよ

と言った。













27 years old
27 years old

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Sは別れて以降ストーカーとなっていたが、仕事と輪華と時折それ以外の女と投資とに忙殺され、気にする対象ではなかった。


実の所Rのマンションに怪文書が来ていたり、Eの実家の庭に不審な人物が現れていた。不審人物は男だろうと回覧板がその地域に出回ったのだが、Sだという確信があった。


自分の実家に原稿用紙20枚程度の手紙、ちょっとした会議資料の束並みであるが封筒が届いていた。それまた15通位だろうか。小説一本分の分量である。

実家住所は教えていなかった。探偵を使う以外、方法は無い。その資金はSの親から出ているのだろう。気の毒な事だ。


更に実家の車庫周辺と、自分が住んでいたマンションの花壇周辺に灯油が撒かれた。点火はされていない。いずれも父親、マンションに至っては他の住人が気付いた。


更にマンション駐車場内の車、タイヤへ穴を開けられた。アイスピックで、である。

警察に被害届を出した。年輩の刑事が「捕まえる為に兵隊(部下)を出してやりますよ」と言った。駐車場内に防犯カメラは有った。


明らかな器物破損のお陰でSは逮捕に至ったが、被害者側も相当面倒臭い。検察庁から呼び出される。

被害状況の確認だけならまだしも、適当な検事が処罰感情を収めようと誘導して来る。つまり検事も面倒臭いのである。穏便に済ませたい訳だ。




苛々しながらイギリスへ出張。

直属の上司というのがこれまた、所謂好き者であった。因みに彼からも「お前は付き合えるよな」と念押しされる。不当な同類認定である。


現地の高級娼婦なるものに会う。これはホテルに上司が既に呼んでいた。コールガールとされる。

この上司は様々な面で曲者であり、ハイリスクな投資に手を出していた。

会社にはどこの金融機関に口座開設しているのか、更に保有株式の報告,売買報告をせねばならない。

あまりにハイリスクだと犯罪に走る虞れがある。変動が大きいからして、値動きが仕事中に気になってしまう。

本職が適当な上司だが、何故か自分は異様な迄に気に入られていた。

確か一晩、と言っても6h程度だがそれで日本円にして約80万だった。上司の奢りである。



会話は英語。5歳上と言っていたが、サバを読んでいる。年齢は有って無い様なもの。5歳上としておこう。

外国人の顔は大体が同じに見えるが、プロポーションは流石に良かった。

上流とされる家庭に育ちつつも、好きな事を仕事にしたと彼女は言った。音楽の素養も有り、それなりの教育を受けた才媛である。

悲壮感無し。心身共に健康。ある程度の嗜癖には対応出来るそうだ。


ここで初めて“普通のプレイ”に至る。こちらは出張で来ている。特に小道具は持って来ていない。

可も無く不可も無し。しかしその普通の行為に、やや感動を覚える。精神的にである。身体的な満足度は若干低い。緩かった。



輪華とも初期の頃は“普通”であったのだが……。


会話が英語であり、一晩限りの為「愛している日本の恋人(予定)」について話す事が出来る。「生き合えているなら愛し合える(=お互い生きているなら成就する)」という言葉を貰う。

思い起こせばあの女もシャーマンだった。

人と一緒だと眠りに落ちにくいと言い、ベッドは譲りソファーで寝た。



この出張中、日本では高校の同窓会が催されていた。

輪華は中退した割にちゃっかり出席している。

彼女はこの時傷心だった。脳外科医の妻から脳外科医の携帯を通し、連絡が来たのである。

自分はと言えば上司(破廉恥上司でない)の娘を紹介され、交際すべきか否か迷う素振りで輪華に話していた。輪華は「結婚したら出世だね」と明るく言った。


同窓会で輪華が邂逅を果たした人物、M…否仮名にて充(みつ)としよう。


充は輪華の存在を在学時、知ってはいた。輪華は静かなる問題児だったのである。

模範生ばかりが揃った校舎内で、髪は茶色いスカートは短い、流行りが終わり掛けたルーズソックスである。授業はサボる。バイトをしている。

しかし学年一位の品行方正な男子(俺様)と付き合っている、何やら妖しい雰囲気で一緒に帰る、普通科のくせに理数科の生徒を差し置いて国と英の成績だけはトップクラス、数I,Aや化学は0点近いという、何とも面妖な生徒だったからだ。

そして中退。入学前から志望大学を決めている生徒ばかりの中、そんな奴は後にも先にも居ない。


充は理数科であり、成績は中程度。勉強はほぼしない。授業は聞いているが後は遊んでいる。

恋愛と部活で輝く青春を送った口である。友人は多い。バランス型のリーダータイプ。

「お好み焼きパーティー」の合コンを主催したのが彼。


遊びつつそこそこの大学に入り、遊びながらストレートで卒業。大学の時は彼も上京していた為、時々会った。

地元が好きらしく、こちらで就職。経営コンサルティング会社である。


以下、輪華でなく共通の友人からの報告メール。

【ミッキー(充)、輪華に粘着】週刊紙の見出しかと思うが、これのみ。


輪華からは【高良、充君知ってるでしょ。お酒飲んでなかったから、帰りは送って貰ったよ】

…充君?

嫌な予感である。


数日後、輪華の家庭教師登録先会社の教務(社員。管理職)と充が友人であり、三人で夕食に行くとの事。充は本気で食いに来ている。

その次のメールに【充君は泊まっていったよ。まだ付き合ってないけど】とある。

胃の辺りに不快感が有った。

くっきりと、輪華は充に盗られると思った。



充はごく真面目な普通の好青年である。邪気が無く面倒見が良い。正義感も強い。女は守るものと思っている。


裏を返せば頑固で融通が利かない、自己を信じて疑わない、支配欲が強い、等々言える。それは自分にも当て嵌まるが。


充とは共通の趣味もあった。将棋、チェス、フットサル、読書。雰囲気やら体型やらも自分と似ていた。

それを何故選んだ、輪華。

失望が大きい。落胆した。輪華はどうあっても、こちらに靡きそうにない。


単純に友人であるからして、あいつとやったのかと容易に映像化出来てしまう。自分は輪華の部屋も見た事がないのだ。これだけ尽くして尽くして尽くし切っても、彼女は部屋には絶対に招いてくれなかった。それを充にはあっさりだ。


充は輪華の病気に引かなかった。


週末、友人同士でフットサルを時折していた。輪華との付き合いが彼にどう影響しているか計る為、更にはどうにか割り込む為、充とは更なる親密化を目指した。


「今、変わった女と付き合っている」「ほら、あの学校辞めた子」「Fが巧いから付き合う事にした」…

「難しい病気だから守ってあげないと」「体が弱い子」「週2で泊まるから食費出す事にした」etc.


別れさせようと思った。充は輪華に滅茶苦茶にされるだろう。彼の手には負えない。どちらの心配をしたかと言えば、この時どちらかと言えば充の方である。


自分は輪華と付き合っていたのだと、充に改めて告げた。学生時代に輪華とは交際中だと教えたのだが、彼は都合の悪い点は忘却していた。

当時、輪華が妊娠したとか性病だとか社会人と実は付き合っているとか実は教師をたぶらかしたとか淫乱だとか、根も葉も無いのか有るのかといった噂がまことしやかに流れていた。彼はそこ迄は興味が無かったのか、噂を耳に入れていなかった。


「じゃ心臓の病気の事も知ってる?あれってどこがどういう風に悪いの?運動全部ダメなん?」…

充は良くも悪くも天然。育ちが良い。人を疑わない。性質が優しい。

自分と同様、輪華の存在に苦しめられるだろう。










28 years old


焦っていた。


上司の娘(しつこい様だが破廉恥上司の娘でない)とは何度か会うには会ったが、交際に発展したら婚約せねばなるまい。追い詰められた様に見えるかも知れないが、この娘とは結局友人関係に落ち着く。落ち着かせた。落ち着く様に仕向けた。



彼女も父親に無理矢理、見合いをさせられていた形である。他に好きな男が居ると見抜いていた。

人の思念の内、強い想いは手に取る様に分かる。



輪華をどうにかして釣らねばならない。

彼女が好きな占術、魔術といった学問を正式に学びたいと申し出てみた。


輪華は家庭教師,塾講師以外に2箇所のカルチャースクールにて、占いを教えていた。基礎から学んでみるとそれなりにしっかりとした探究であり、占術によっては理系である。


講師をしているだけあり、彼女は個々の生徒に合わせカリキュラムを組んでいた。細かくよく考えられていた。


話す機会、会う機会を多く設けた。

彼女は水晶だの貴石だのも集めていた。急遽高額な水晶を幾つも揃えた。輪華を釣る為であり、最初の動機は不純だが水晶とは輪華に似て強く透き通っており、万能薬の如き石だ。産地等も調べ尽くした。


何度か「ずっと好いている」「忘れられない」「一緒になりたい」「結婚を視野に入れて付き合って欲しい」と告げた。多くは車内だ。静かに二人で話せる場所だったからだ。


輪華は黙ったままで居たり、こちらの目を試す様に覗き込む様に凝視した。1分も凝視されたらこちらが保たない。こう見えても見詰められれば動悸位はする。

何か言ってくれと言っても、困った顔をした。又は泣き出した。或いは厳しく低い声で「何て言ったの?もう一度言って」と言われた。断ろうとしていると感じ、何も言えなくなった。



無理に引き寄せたり手を握る等すると、有り得ない位にガタガタと震えた。「怖い、怖い」と幼い声色になり、ぼろぼろと涙を流した。



それでも頬や手の甲、首筋に口をつけた事はある。一旦、受け入れてくれる。身を固くしてそのまま停止する。すっと離れてしまう。そして暫く連絡が途切れる。口をつけただけなのに思い切り顔をしかめ、「痛い」と言った時もある。

怖いから嫌だ、痛いから嫌だ、その様に言われた。



大雪の夜、電車が止まった日に60km先の山に程近い無人駅迄、迎えに行った事もある。仕事後の疲労を押し睡眠を削りそこ迄して、二人で大雪の中の田舎のラブホテルに入れたは良いが、輪華は眠かっただけの様だった。気絶した状態なのか熟睡なのか知らないが、ベッドに運んで10回以上キスしようが触ろうが反応無し。

むにゃむにゃだかウニャウニャだかは言っていた。それだけだ。

しかもそのラブホはシャワーが壊れていた。

許すまじ。


無論彼女に触れる事が出来たは喜ばしいのだが、反応が欲しかった。受身のキスでなくこちらを求め、齧り付いて来る様な。一挙一動に過敏に反応する姿や、その声。それを聴き、それを見たい。



大雪の日から年月は経っているのだが、充と輪華は婚約に至る。

二人は仲が良い様に見えたし、また周りの友人らもそれを疑わなかった。


だが輪華は婦人科に通い詰めていた。炎症が起きた出血した腫れた、膣の中に挿入された物が取れなくなった等と訳の解らない事を言った。

最も理解不能だったのが、海釣り用の生き餌を挿れられたとかいう話だ。思わず訊き返したのだが、輪華は何とも感じていない様子だった。

「しっかりしろ」と言った。それは異常だ。輪華は「大丈夫。別に何とも無かったのよ。何が異常なの」と答えた。


婦人科には連れて行った事もある。いつもは好々爺であろう初老の医師に、「旦那なら奥さんの体を考えてやれ」等々言われた。自分は彼女の友人だと言い、彼女の恋人に伝えると言うと推し量った沈黙が流れた。


まさか充にその様な趣味が有るとは思わなかった。輪華(又は他人格)が無意識にやらせているのだろうか。彼女がそんな事を望んでいるとは思えない。


充は輪華と付き合い出してから、急な昇進を遂げた。そのせいか自信が肥大化している様に映った。輪華が暗示を与えている事は明白。

近しい者の美点も欠点も、輪華は浮き彫りにする。


社内での地位が上がると外でも横暴になる人間が居るが、充はその典型だった。充の父親がそのタイプだ。無論、輪華に対しても横暴だった。


輪華の姉を含め4人で飲んでいる時に、充は輪華の頭部を真横から軽くではあったが、振り払う様に叩いた。姉はトイレに立っていた。

理由は無かった筈だ。強いて言えば輪華はよく、力の入っていない手を滑らせて物を落とすが、その時はグラスと皿がぶつかり音を立てた、その程度の事だった。


輪華は雷に打たれた様に震え出した。全身が震えていたが両脚の振戦(震え)がひどかった。充の様子は変わらず、これは日常的にやっているなと分かった。心配どころか寧ろ、輪華の反応を面白がっていた。

傷が残る様な暴力ではないのだが、輪華は叩く仕種に過剰反応する。それを充に伝え、やんわりと注意した。


「大丈夫だよ」と充は言った。今度は輪華に甘え掛かり抱き寄せ、縫いぐるみに抱き付くかの様にしていた。すると輪華の震えは徐々に治まっていった。この二人はこれでバランスを取っているのかと、やや呆れた。


どうでも良いが自分が居る空間であっても、こちらが見ていないと判断した充は、輪華のブラウスの襟から手を入れたり或いはスカートの中に手を入れたりと、やりたい放題だった。

輪華はそうした時、無表情だった。されるがまま。全てを大した事に数えていない。自分が見ているのも分かっていた筈だ。それでも大した事に数えていない。若しくは……主人格である彼女の意識は無かったか。

人の神経を逆撫でしているのだが、そうやってこちらを切ろうとしているのだろうかと、彼女の意図を考えていた。



1月だった。

【充君が出張、今日は泊まりで帰って来ない、寂しいから一緒に居て】と輪華からメールが来た。

そうしたメールが来れば、どこまで人を舐め腐っているのかと苛立ちも覚える。同時にそれでも会いたくなる。生き地獄である。



こちらは休日。予定していた服を買いに行く為に付き合って貰い、代わりに本を買ってやり送ろうとした。

輪華は充と既に同居していた。


「高良の所に行く。高良と一緒に帰る」

不意に強い口調で、輪華は言った。

夕刻。


部屋に誘った事は、これ迄にも何度か有る。その度に「今度ね」と断られた。逆に輪華の部屋に行きたいと言っても、「何で?」と真顔での返答だった。


真冬の夕刻。雪が降り積もっていた。雪明かりはあれど、辺りは夜だった。


無言のまま車を走らせた。脳内は大混乱していた。

考えても答えが無い。自宅マンションの駐車場に車を入れ、エントランスのドアを開け輪華を入れ、もう一度ドアを解錠し、エレベーターに乗りまた解錠。ドアを開ける。彼女が自宅に入る。

ドアを閉める。施錠。


目線よりだいぶ下に小さな頭と薄い肩があった。昔より縮んだと思った。

輪華はしゃがみ込んで、ブーツの紐を解こうとした。真っ白な細い指で、懸命に解こうとしていた。


それを見ていたら一瞬視界がブレた。視界のブレる音が脳の中で一度した。その指を掴んで握り粉々にしたい衝動に駆られた。


全部了解して飲み込んだ上で来た筈だ。代わりにブーツを脱がせ、そのまま抱き上げて素早くベッドに連れて行った。

輪華は動かなかった。何も言わない。荷物の風情だ。ベッド上で自らコートを脱ごうとした。釦を外せずに手間取っていた。また視界がブレた。この冷たい手。握り込んだら簡単にバラバラになりそうな華奢な、骨の浮き出た手。


コートを脱がせて初めて、着ていた服を見る。小学生が着る様な赤いチェックのジャンパースカート。充の趣味だろう。これも脱がせた。

ここで一旦、暖房を入れた。輪華はゆっくりとした動きで、タイツを脱いでいた。それはスムースだった。

よく顔を見てみる。無表情。まるで仕事でもしているかの様な。


苛立ちを覚えた。前戯無し。俯せにした。肘と膝をつく様に命じた。「嫌」と言う。この期に及んで拒否権等無い。ニットを脱がせる、コバルトブルーの下着も充の趣味だと思った。苛々した。手早く自分も脱いだ。スキン無し。


音が出る程濡れていた。輪華は悲鳴に近い声を上げた。完璧に予期して来ているのは間違いない。腰骨が尖っていた。触れた。脊椎も肋骨も浮いていた。脊椎を下から舐め上げた。肋骨に指を滑らせた。輪華はその全てに過剰反応した。


自分が保たないと判断し数分で抜く。勿体無いので撮影して良いか尋ねた。

輪華は仰向けになり、ぼんやりとした目で頷いた。やはり大した事だと思っていないのは、明白。


機材をセッティングするのに2分程度。ブラインドを下ろした。

最初から脚を大きく割った。輪華が怯えた目をした。その顔が見たかっただけだ。


輪華の中は狭い。彼女に対してのみ、耐久度が低くなる。輪華は絶対に本物の快楽を知っていなければ出せない声を出した。昔より完全に慣れていた。絶頂の中だと外に異物を押出す動きを膣という部位はする。彼女に名前を連呼されたらもう駄目だった。


絶倫じゃあるまいし直ぐに次は出来ない。一度目は淡白に終えた。

外に出したが妊娠する比率と宝くじが当たる比率とは、せいぜい同程度に思えた。



輪華はあっさりと「帰る」と言った。

どっちが男か分からない。「帰るなら監禁する」と答えた。9割本気である。

仮に監禁しても行方不明で済む。輪華が望む物は何でも与えてやるから、ここに一生居れば良い。それなら公的な結婚でなくて良い。


時間の感覚が失われた。どちらも食事を摂らなかった。アルコール,ミネラルウォーター,液体のカロリーメイト、全て口で移して飲ませた。一気に流し込まない様にした。輪華が命懸けの様に吸い取り飲もうとしている姿を、いとおしいと思った。彼女は生きたいと欲しているのだと。


他の女にして来た事をしようと考えた。1mmも動けぬ様に縛っていった。仮に抵抗の動作をしたら腕神経叢,大腿神経等へ痛みが走る。だから動けない。輪華は泣いていた。これ迄彼女を愛すると同等に自分は、彼女を憎んでいたのだと初めて強烈に実感した。


恐ろしく長時間の執拗な、愛撫なのか加虐なのか判断のつかない行為を繰り返した。だが器具は用いていない。用意が無かった。

輪華の口にネクタイを詰めていた。クリーニングに出さず取って置こうと思いながら、抜き取った。彼女はその轡を外されてから驚くべき事を囁いた、切れ切れに「もっと」「して」と、確かに口にした。

彼女にとっては、底の無い愛情確認に過ぎなかったのだ。


泥々とした夢の中で動いている感覚だった。外は雪。

霞がかった色の室内は普段の自室の空気ではない。何万回と輪華を想ったベッドの中に、今ここに彼女は居る。輪華の発する匂いや声に満ちる。悪夢に似た淫夢。あれだった。あの中に二人で居た。目を閉じて動いていると瞼の中は、赤黒い。輪華と出逢ったばかりの思春期に見た、あの夢の光景。気付けば涙が滝の様に流れていた。輪華はそれを見ても、何も言わなかった。

出たくなかった。そこからもう二度と。出たら現実が待っている。



























29 years old


翌日は仕事にならなかった。表面上は仕事をしている。

朝起きた輪華はいつも通り。何事も無かったかの様に「眠たい」と言った。

記憶が無いのではなく、通しで記憶していない様に見えた。ここからここ迄は記憶しているが、話した内容は覚えていない、その様に見えた。


この時期の輪華は婚約中であり、充に仕事を辞めさせられていた。治療に専念する為でもあった。彼が帰宅する前に家に送った。寝てから家事をすると言っていた。こちらはそのまま出勤。


20時過ぎに電話が来た。輪華の携帯から。あの程度で右から左に婚約破棄し、こちらに傾くとは思えない。期待する気力は抜けていた。

『高良さんですか、今お時間宜しいですか』男の声がした。正しくは苗字も呼び掛けに入っている、フルネームで呼ばれた。

こいつ、どこかで……そうだ。以前輪華に電話したらこいつが出た。

この時点で輪華の他人格と目星はついたのだが、どう冷静に考えても探っても(発している声の元が)輪華には思えない。女の声帯から出る声ではない。かと言ってボイスチェンジャー等では断じてない。


T(苗字)ですがあなたは?と訊き返す。

『イシキと申します』次の言葉を待った。余計な事は喋らない積もりらしかった。

あなたは輪華の他人格ですか、と訊ねた。

『その通りです。あまり危険な行為をしないで頂けますか、彼女は現在発熱しています』

と言って来た。不思議な心地になった。彼女であって彼女でない人物と話している。しかもイシキと名乗るこの男は、何があったか知っている。

耳を澄ませる内に、じっとりと携帯を持つ手が汗で濡れていた。ぞわぞわとした。普通ではない。これが、多重人格───

輪華があなたに話すのですか、と質問した。交霊術をやっている様だった。

申し訳ないが興味しかなかった。

『そうではありません。私は裡側から観えます。輪華は私を未だ知りません。話し掛けても頭痛を起こすだけです。昨日も観ていました』………

『あなたに会って話しておく事があります。ご都合をお聞かせ願います。今週末は如何ですか。発熱している時は出掛けたくないので、相すみませんが』都合を聞いておきながら都合を捩じ込んで来る。

了解した。休日の昼間。充は出勤日だ。

『O(充の苗字)の自宅の近所にXxx(店名)が有りますね。そこでお会いしましょう。あなたの車に乗りたくありません。お分かりですね。では失礼します』………

一々突っ掛かる物言いである。



輪華の治療過程については、充からも聞いていた。主治医の一人に会った事もある。病院への送迎をこの頃はまだ頻繁ではないが、手伝ってもいた。

回復しているとは聞いていた。しかし輪華は薬を大量に飲まされていた。リスペリドン、ヒルナミン、レキソタン、コントミン、ロヒプノール、アモバン、マイスリー……数えれば切りがない。人格に合わせて処方されている場合もあるが、交代しない様に飲まされていたり、交代したら服用させねばならなかったり、交代させる為暗示を与える前に病院が飲ませる薬もあった。


どれがどれかは充が把握していた。自分も幾つかは覚えた。恐慌状態になったらリスペリドン。それからマイスリーを飲んでいる時は交代しやすい。

充が管理している薬でなく、充と出逢う以前に溜めた薬を輪華は未だ持っていた。「苦しいから、飲む」と言って勝手に飲んだ事もある。止める間もなく。アルコールで飲み下す場合もあった。作用を増幅させないと効かないのだと。

薬で抑えているだけであり、治療は進捗していないかに見えた。確かに問題行動は減っていたが。


イシキと会った時の事は、思い出すと気分が悪くなる。輪華を輪華でない人間が、乗っ取っているのだ。《エクソシスト》正にあれだ。悪魔を祓えるなら確実に祓ってやる。しかしイシキは悪魔でなく輪華に必要とされ、生じている。

イシキは本を読んで待っていた。輪華が講師業で着ていたパンツスーツ姿だった。ヒールでなくローファーだった。充は輪華に女子高生が履く様な焦茶色のHARUTAの靴を、よく履かせていた。

見た事の無い表情の輪華だった。輪華の姿をした別人。書いても伝わらないだろうが、目を見ると既知の人間か見知らぬ人間かが分かると思う。輪華の目ではなかった。目の形だけが輪華である。意識の持ち方が違う人間が、中に入っている。その事実に鳥肌が立った。憑依を目にした時と似ている。が、それとも異なる。


イシキの前にあるのはドイツ語で書かれた、精神医学書だった。それを目の端で見ながら挨拶していると「中級なら読み書き出来ます」と言い、手帳を示して来た。

男物の黒革。左手に万年筆。ドイツ語が書かれていた。左利きの筆跡。

万年筆は使い慣れていなければ、滑らかには書けない。イシキの筆跡はこなれたものであり、信じさせる為か目の前で万年筆を走らせドイツ語の文章を幾つか書いた。医学書の一節を指先で示し、読んでみせた。大学で学ぶ程度だろうか、理解しているらしい。


イシキは相関図を書きながら、各人格の説明をしてくれた。

「これは誘惑者です。しおり、栞と書きます。12歳です」

といった具合。

「先日も現れていますか」訊ねたがイシキは首を振った。

「栞はアブノーマルな行為をしません。あなたが遭遇するのは、しずく。16歳、統合済」

どこからがアブノーマルなのか……

「これがマノ、真野ですね。18歳。統合済。攻撃者。場面により守護者」

それらを聞き終え、用紙はそのまま受け取った。イシキは「輪華は結婚します。あなたはご遠慮して下さい」と言って来た。

「充が輪華を幸せにすると思えますか?」

と返した。それには「そんな事判りかねます。人同士の事じゃないですか?」と言う。

イシキには予知等の力が無い様子だ。

彼は自身をISH,イッシュと名乗った。内的自己救済者、まとめ役だと。彼は輪華の進学の為、いつも手を貸したと言う。


「ところで何故、充を認めるのですか。条件は自分と変わらないと思いますが」そう言った。

イシキは「輪華がO(充の苗字)を選んだんじゃないですか、あなたでなくて?」………取り付く島もない。

「では輪華に従っているのですね。輪華がこちらを選ぶなら、従うのですか」これには即答で「従います」

イシキは医学書を差し出した。「DID(解離性同一性障害)の症例です、あなたはフランス語と英語は堪能の様ですが……お読みになれますか?」

皮肉な口調、目線だ。



輪華には、イシキと会う前後にメールしていた。普段の輪華のメールの内容が届いた。笹かまで変なサラダを作った(写真付)とか蒟蒻ゼリーなら食べたとか、買って貰った本を読んだよ、風邪引いたけど治った、といった内容だ。

イシキはいつ交代するのだろうか。

会った日の夜に輪華に電話した。事前にメールせず。

電話を輪華は取らなかった。否、イシキが。



「妊娠したよ」

電話が来た日は3/8


翌日もう一度来た。胎児の心音が未だ確認出来なかったが、翌日別の病院で確認出来たそうだ。

輪華は子宮にも病気、というよりは障害が有った。中隔子宮。つまり子宮奇形だ。

不妊治療せずに妊娠……


おめでとうと言った。事務的に。祝いの品の希望を尋ねた。事務的に。

輪華の最終月経が分からない為、自分の子なのか淡い期待を抱いても逆算出来なかった。

充は出張がなければ一日おき、或いは毎日の様に性行為をしている様子だった。充当人も話していたし輪華からもそう聞いているという、彼女の姉の弁だ。


気が一息に抜けてしまった。輪華は充に指輪を購入。彼女から、である。

ジューンブライドで6月入籍予定だったが、早まり4月入籍。多忙の充が役所に立ち寄れた日、只それだけの日に入籍。


輪華の戸籍は血縁の父親との死別、母親の伯母との養子縁組、解消、更に義理の父親との養子縁組、等々複雑であり、懇意の親戚がほぼ居ない為、結婚式も無かった。遠戚にも“貰われ子”“家なき子”と言われていたらしい。不憫だと率直に思う。



妊娠した為、輪華は大量の抗精神薬を抜き始めた。主治医らと相談していたが、離脱症状,断薬症状(所謂禁断症状)に激しく苦しんでいた。

腹部に未だ変化がない時期は、病院に連れて行った。時間が有れば付き添った。充はタクシー代と治療費さえやっていれば、それで良いとの認識。

彼女の体調を、軽く見ていた。


吐気、嘔吐、目眩、下痢、便秘、食欲不振、頭痛、振戦、動悸、不安、焦燥、アカシジア(静坐不能=座れない)失神、錯乱、自傷、自殺企図、

知っているだけでこれらの症状。更に悪阻と貧血。

充はそれでも輪華を抱いていた。安定期に入る迄控えろと、産婦人科医に言われても。

「控えろだから、絶対じゃないでしょ」と言っていたらしい。


直ぐには薬は抜けない。薬毎に半減期というものがある。薬の血中濃度が半減する時間。薬によって異なる。3h-100hと幅が。


輪華は1錠を12分割し、服用時間をレコーディングし、各薬剤を少しずつ抜いていった。意志が強くなければ不可能。気の遠くなる道筋。完全な断薬迄は、産後4年も続いた筈だ。

メールのやり取りをし、励ましてはいたが会わなかった。会える体調でもなく、妊娠し入籍した彼女から、距離を置くしかなかった。明らかな妊娠中の姿は、目にしたくなかった。



仕事に集中した。海外出張が多かったが、近県への出張もあった。職場の人間関係は言ってしまえば軍隊そのものだが、地位を確立すれば楽と言える。



実家に帰った際、近所にある中学校を散歩がてら見に行った。感傷的になっていた訳だが、そこで生徒に卓球を地域ボランティアで教えていた2年後輩女子(仮名を七奈とする)と会う。

輪華がよく面倒を見ていた後輩である。


開口一番「先輩、先輩と結婚してますか?」

と来た。輪華は結婚した、後はもう不倫狙いだと言っておいた。

その晩に電話が来た。実家の電話番号だ。

七奈は学区内に住んでいる。まだ実家だと言った。薬剤師になったそうだ。


「結婚して下さい。先輩(輪華)との再燃まで」

交際の申し込みではない。結婚の申し込みである。しかも不倫迄の期間限定。

「輪華以外の女を、自分は道具にして来た」と申告した。普通はこんな男は嫌だろう。

「道具にされたいんです」これが七奈の返答だった。

輪華に何かあったら、例えば心臓の病気等(七奈はDIDを知らない)で危なくなったら家族を犠牲にする様な人間と、本当に結婚出来るのか尋ねた。更に、結婚とは相手の子供を産み育てたいかどうかだ、一緒に生活が出来るかどうかだとも説得した。

七奈は自己を「打算的な女」と言った。「先輩の顔と体、見てくれが好きだ、学歴と経歴が好きだ、優秀な子供を産みたい」とも言った。


七奈の容姿は華奢ではない。健全だ。精神も。彼女の実家も経営だった。

「お試し期間を下さい、エッチしたいから」だそうだ。久々に笑う事が出来た。




10月末。

輪華出産。




















DV
DV

DID

30 years old

-33 years old


30,31,32,33歳

互いに辛い年月が流れた。この時期は思い出したくない事も多い。


輪華とは会っていた。会っている時だけが安らぎだった。

七奈には申し訳ないと思うが、彼女とは当たり障りなく付き合っていた。特殊な事は何もない。

普通のカップルがする事のみ、判で押した様に。七奈は性の面での特異な部分を受容しない、出来ない。だから求めない。

何とかまともな振りはしていた。器用になったのでなく迎合出来る様になっただけだ。

七奈を輪華の代わりだと思った事は一度もない。


七奈が妊娠しない様に計らう、仕事との兼ね合いを理由として結婚を遅らせる、輪華に自分の思考を読ませない様にする、仕事で目障りな奴は予め潰す、そういった面だけは器用になっていった。


産後1ヵ月の輪華に会った。子供を産んだばかりに見えず、また痩せていた。

通常は助産師が訪問を重ねる事はないが、病院と役所と相談し産後8ヵ月迄、定期的に自治体の助産師が訪問していた。

輪華が虐待を子供にする虞があったからではない、彼女の心身の不調のせいだ。


輪華はDVについて口を閉ざしていた。仮に助産師に相談していれば、状況は変わった筈だ。

充は産後間もない輪華を真冬にバルコニーに出す等もしていたし、出血があろうと何らか酒の瓶を彼女に挿入する等していたらしい。輪華から聞いた。


出産経験がある方はお分かりかと思うが、産後の冷えもまた毒だ。輪華は腹痛と出産時の裂傷が開いたとかで後々も、病院通いだった。子宮内膜症だの筋腫だのにも、これらは影響したのではないか。


それらが起きたら連絡をくれと言った。通報する積もりだった。又は迎えに行くからと。

輪華は「私は充君が好きだから、それでいい、大した事じゃない」と言った。

この 外に出す、異物を挿れるというのは充が好んで輪華にしていた事である。

彼曰く“お仕置き”、折檻にしか思えないが。


輪華に対しては、病院等では充の代わりに配偶者の振りをした。この時期彼は出張により、2週に1度の帰宅だった。

輪華の自宅では兄か親戚の伯父の様に振る舞った。足りない物を買って来てやり、赤ん坊を見ていた。

見ていた、とは只見ていたに過ぎない。授乳は完全な母乳だったので手伝えない。おむつを替える程、赤ん坊に近付けない。充と輪華の子……としか思えず。いくら彼女の子でも、半分は他人の子。彼女に危害を及ぼしている男の子供。

輪華がトイレに行く、キッチンに行く、部屋を掃除する、それらの時に赤ん坊の近くに居ただけである。



生後1ヵ月で腕の中に入れたが、首が座っていないので以降は触らなかった。

しっかりと抱き上げる様になったのは、1歳前だ。

輪華は「抱っこしてよ」とよく言った。病院や買い物等の外出時、ベビーカーに乗せる程度が精一杯だった。



仕事は極めて順調だったが、早く海外赴任となる様に更に努力すべきか迷っていた。

仕事に集中するなら輪華に会う機会は減る。

輪華に会っている時だけ、自然に息を出来るのだ。無理だ。


輪華が結婚しても出産しても、異常な関係。何の立場でもないが彼女に会いに行く。普通の友人の男の行動ではない。但し赤ん坊が同じ家に居ると思うと、更には彼女の体調を鑑みると何も出来ない。



充を殺すか…,

それとも自殺するか,

輪華のみ拉致するか,

輪華への暴力を断罪し仮に子供を殺したら、充は悔い苦しむだろうか。

これらを想像したり計画すると、少々落ち着く。


輪華だけが必要。異常者の自覚はあった。何故こんな風になったか、それももう面倒臭い。考えたくない。

輪華に会いたい、その一心で日々を送った。待てばいつかは輪華が、こちらに来る。何の根拠もない。長い。ゴールが見えない。頭を抑えられて海に沈められている様だ。


だが会えば輪華は自分に頼ってくる、甘えて来る、時には好きだとも言う、軽い口調ではあったが。「好き、一緒にいてね」

この一言だけで保っていた。


「充君としてたら血が止まんなくなって、救急車を呼んだ」と聞けば、いつか事件になるのではと思う。その方が良いとも思った。いっそ事件にでもなれば良いのだ。



充は輪華を軟禁していた。食品はネットスーパーなり生協なりを活用している。それ以外の物もあらゆるサイトから、取り寄せられる。


荷物は宅配Boxに入れられる。マンションの管理人が駐在している時間なら、荷は受け取ってドア前に置いてくれる。管理人は輪華がもしも勝手に外出したら、直ぐに充へと連絡する様頼まれていた。


輪華は妊娠以前の未だ外出可能な時期に、風俗のスカウトに尾いて行った事がある。充は以降、徐々に束縛を強めていった。輪華はスカウトの男が困っていたから、力になりたかっただけだと言う。

やはり輪華は、子供の判断しか出来ない時がある。その意味では自分も心配だが、充はやり過ぎだ。



真夜中に電話が来た。マンションのバルコニーから。また充に閉め出されたのかと思いきや、自ら輪華は出たらしい。バルコニーしか外の空気を吸う場所が無い。

飛び降りる気配だった。6Fだ、助からない。

死ぬ前に電話して来たと感じた。


「すぐ迎えに行く」と言った。これには「来なくて良い、困らせないで」

色々な事を伝え話した。輪華が居ないなら生きる事は苦痛だ、と伝えた。ずっと待っている、助ける、好きだ、これらも言った。電話の為かなりの言葉を尽くした。

電話して来たならそれは甘えだ、旦那なり彼氏なり上手く行かなければ女は次に行く。せめて捌け口で良い。体だけで繋がれたらそれでも良い。後はどうとでもする。そうなれば充から奪う。否、返して貰う。彼が先に盗ったのだから奪還だ。

輪華は「来世で。来世で一緒に」と答えた。



そのまま死ぬ事は、なかった。子供が居るからだろうか。次に会っても「私は幸せだよ」

「心配しないでね」と言われた。


病院に付き添う、メールする、電話する、輪華の姉の協力を得、時々公園や買い物に行く。可能な事はその程度。


どこから崩して良いのか判らない。充を信頼させる事。充を信用させる事。


輪華は“統合”(回復)に至り、一旦治療を完了した。イシキは最後まで統合せず、輪華の中に残留した。ISHが主人格の代わりに、社会生活を送るケースもあるのだそうだ。

何らかの要因で幼児退行する事もあるが、これはDIDの症状ではない。誰にでも起こり得る。


主治医に彼女の配偶者、充は退行状態の輪華を性の材料にしている、といった話をしに行った。回復状況を尋ねに行った際に話した。

「そりゃ不味い、旦那さんに無理強いされたらまた同じ事の繰り返しです」との事だったが、退行時の輪華は充を歳上の庇護者と捉えている様だった。

最終的には「ご夫婦の問題」である。


輪華のメールアドレスにフリーメールから、イシキ宛にメールを出した。返信は無かった。























救急車で運ばれた後の処置、子宮が腫れ内膜症との事。リュープリンとは抗癌剤、この時既に使用。
救急車で運ばれた後の処置、子宮が腫れ内膜症との事。リュープリンとは抗癌剤、この時既に使用。

34 years old

男物の服を着て佇む。硬直化して立っている場合有(現在も)
男物の服を着て佇む。硬直化して立っている場合有(現在も)

34歳。転機が静かに訪れる。


輪華と充の家に行く度に何の音も無く、静寂に包まれた孤独な空間だと思いながら、その静けさに癒しを覚えていた。

輪華の孤独と虚無。共に在れば埋まるとは思わないが、分かち合い半分にする事は出来る。自分の孤独と虚無は輪華さえ居れば埋まる。


ある日輪華は「私が病気だから、赤ちゃんは保育園に入れて貰えるんだって。保健師さんが来てくれた」と言った。

充は輪華の不安定さに引摺られ、病んでいた。外側からは仕事に打ち込み妻子の面倒をよく見る、模範的な男だった。掃除は出来ないが炊事洗濯は手伝っていた。


輪華は障害者手帳を返還していたが、心臓や子宮の不具合で通院していた。癲癇でなく頭痛で脳外科(元不倫相手の病院でなく)に通い、何故か耳鼻科にも通い詰めていた。目眩の治療がメインだが、輪華は話し掛けても返答が無い時が多くある。充は聴力に問題があるのでないかと、調べていた。

何かを霊視している際、他の空間を視ている場合は気付かないだけなのだろうが、その様な事は一般的に受け入れられない。


充は「重い障害者」だった輪華が好きだったのではないだろうか。絶対的に守らねばならない対象を守る、社会的な大義名分が必要だったのでないか。会社内で「難しい病気の奥さんが居て家庭が大変なのに、仕事が出来る」という身分,立場で居たかった筈だ。

そして家庭内では輪華を徹底的に支配する。


代償とし充自身が病む、過労で倒れ救急車を呼ばれ、自分に頼って来る。あらゆる事を充は相談して来た。自治体のサポートに何が有るか。良い医師が居る病院は?……引っ越しをするがどこが良いだろうか、良い引っ越し業者はどこか、賃貸契約書に目を通して不備が有れば教えて欲しい、車を購入するには?ローンを組むには?等々。


充が冷静な判断を無くす様、最初に自分が示したのである。充の判断のこれは違うあれも違う、間違っている、何なら全部やっておこうかと。充は人に頼る楽に流された。簡単だった。


輪華の通院の送迎をやろうか、書類を届けるついでに不足している物を買って行こうか、代金は特に要らない、これらの申し出を誠実な顔で切り出すだけだ。徐々に輪華の診察代,薬代等の支払いも曖昧になっていった。充は仕事に集中したがり、輪華にもDVの一環で現金は持たせない。

だいたい幾らでもない、独身で余裕の有る友人が出してくれるだろう、ついでに。これが充の甘えた思考だ。

人は何かに一度甘えてしまえば、制御する事が非常に難しくなる。充は周囲に甘える事の可能な環境で育っている。事実、充の実家にも過度に甘えていた。


保育園の利用については、輪華と二人で過ごす時間を確保する為に自分が充に持ち掛けたのだ。充は自宅に保健師を呼び面談し、その後役所で入園の手続を踏んだ。

一般的に保育園に子供を預けるには大変なのだが、私立であり金さえ出せばという側面はあった。それでも入園希望は多いが、輪華の心臓の診断書があれば優先的に入れる。


輪華はやや別の事を考えていた。

子供が保育園に行く=働かなければならない、それでかつて世話になった古物商の店の一画で、占い師を始めたいと言った。


予測していなかった事ではあるが、輪華が自由を得られる様こちらからも古物商に連絡した。店名はわかっている。輪華は自分が取計いをしたとは感知していない。店主に輪華は配偶者に過剰に束縛されている、送迎は自分がやる。配偶者の説得もする。あなたからも彼を説得して欲しい、この様に伝えた。


古物商は電話にて充を巧く丸め込んだ。口八丁で仕事している人間だ。

輪華の送迎役を店主がさらって行ったのは、若干計算外だったが隣市に店があるので自分が連れて行くとし、帰りは店主に頼んだ。この店主は輪華を未だに想い、囚われている人間の一人である。


その古美術骨董古物店では、客の話を何時間も聴くのが普通だったと輪華は言った。

蘊蓄を吐き出したい客は多いのだろうが、何時間も話し込むのは輪華の力に違いなかった。何時間でも真剣に聴き入るのだから。


輪華は自分の占術に値段を付ける事が出来なかった。「お金の事分からないから、高良が決めて」と言った。霊視1項目5000円と設定した。タロットでも同額である。


これは有耶無耶になった。輪華は会話の中でこれは2項目だと感じても、口に出せない。店主が聞いていて良いという依頼者であれば、店主が口を出し1万だと言える。



だが殆どの依頼者は3-5万を彼女に支払った。

輪華は体調によるが週に3-4日、4-6h程店に出ていた。彼女が居るだけで客が来る、と店主は大層重宝していた。

彼らは占いというよりは、彼女に会いたくて話をしたくて来るのだ。輪華の特性である。


余談だが常々、占師は他に何らかの能力を持たねば勤まらないと思っている。占術一本で食って行ける者は僅かだ。

本業でも良い、自己表現手段でも良い、占術以外の語学等のスキルでも良い。容姿が整っているとか、コミュニケーション能力が高い等も良い。美でも飯は食える。人と上手くやれるなら、どこで何をしても生きては行ける。

占師しか出来ない奴は、詐欺師か落伍者に身をやつし易い。依頼者に依存し金に依存する。正しく占術を使えなくなる。

昔の日本の占師とは祈祷なり祓なり何でもやっただろうが、普段は薬草を作り織物をし畑を耕し、自給自足でも生きて行ける様にしていた。権利者に飼われて身を売る術者も男女問わず居たが、それは能力の一端である。


話が戻る。

仕事を抜けられなかった事が重なった時期、輪華は送迎を店主にだけ頼む様になった。避けられていたとは思わない。その後独立するに当たり、「高良と占いの館をやりたい」と言って来たからである。

選ばれたのなら力は尽くす。


充は輪華の収入に目を見張った。地方銀行の支店長程度は、毎月稼いで来る。「高良が一緒にやるんなら独立してもいい」と言った。

店主は輪華の意志重視であり、「宜しく」と言われた。

店主は、自分が輪華から長らく離れられないのを見抜いていた。彼女への接し方で分かったであろう。


輪華が選んだ物件は古かった。3DK、オートロックではない。エントランスは有り一応、住民関係者以外は入りにくい構造である。裏は施錠されてはいたが、扉は女であっても乗り越えられる高さだった。


Sを思い出した。あいつはもう娑婆に出て来ている。メールはだいぶ以前からまた、届いていた。

七奈に会う際は危険が無い様、必ず彼女の実家まで送迎していた。仕方なく泊める日(誕生日,クリスマス等)には格段に注意を払っていた。


しかし七奈の勤める店舗(ドラッグストア)を出禁になった女がおり、何故か毎日の様に白砂糖1kgを買って行き、店の前に撒くそうだ。出禁後も来た為、警察が呼ばれたと言う。



心配はした。輪華が狙われないかどうか。

輪華は…、決して一人では出歩かない。貧血が理由としては多いが、よく倒れる。充の父親も送迎に協力的である。自分か充か、彼の父親か誰かしら男はついている。

誰かが守る。勝手に外出しなければ。



占館開業に当たり、輪華の生徒が集まった。輪華が選び、呼んでいる。初期メンバーが雪白華と香雨翡翠である。

二人共に面接はした。充でなく自分が。輪華が選んだなら問題無いのは分かっていた。

雪白華は大学生。特筆すべき点無し。

香雨は元医学生、更には元ホストと首を傾げる経歴であった。外見は整い過ぎており、逆に傷を付けたくなる。


香雨は輪華に依存し甘えていた。無意識なのだろうが、男として甘えていた。輪華には通じていなかったが、流石にホストだっただけはある。要注意人物とし、初期は冷淡に接していた。


輪華の鑑定料は1h5万、それでも予約が翌年まで入る。電車やバスでも来館出来るが、車での来館が圧倒的なので駐車場は3台分借りた。

内装はかなり凝った。こうした空間は来館するだけで心地良くなければならない。もてなす茶器茶菓子等もこだわった。安らぎの場であるのだから当然である。それらはケチってはならない。

輪華は仕事中、なるべく着替えさせた。若しくはローブを羽織らせる等、気を配った。女児服で鑑定は有り得ない。(それを気に入る依頼者も居た)


香雨が1h3万。彼は占師経験があったからでもあるが、この顔と1h話して2万は安いと思った次第である。やや占師路線より外れての設定。これも依頼者が途切れない。


雪白も占師経験が有るのだが、暫く受付雑用で良いと言う。

自分は経理のみ担当していたが、財務鑑定,方位鑑定,会社鑑定に駆り出された。時に出張で鑑定した。はっきり言って本業の知識も売る事になるからして、輪華同様1h5万に設定。


実は館で得た収入は輪華に渡そうと、貯めてあった。館の仕事等、自分にとっては片手間でしかない。充から逃げる際に子供を連れていれば、何かと入り用だろう。

輪華の始めた場所で得た収入である。依頼者は彼女に会いたくて先ず来る、続いて香雨なり自分なりに目を移す。輪華無しでは館は成り立たない。



輪華と居る時間、場所を確保した。残念ながら二人きりになる機会はあまり無い。なれたとしても短時間。核心に迫る話は出来ない。





本業の出張の数は減っていた。せいぜい年2回フランスに行く程度。時たまにシンガポール。

代わりに接待が多くなった。料亭で芸妓を尻目にこれぞと思う実業家に、輪華の存在をちらつかせた。彼らは一様に興味を示し、輪華に入れ込む。そうなる者を選んでいる訳だが、輪華は何も知らず気にせず、来る者拒まずである。


破廉恥上司のせいで所謂“キャバクラ”ではないものの、女が全員着物であり政治経済の話が出来るというだけの店等、連れ回された。

昨今、品の無いコンパニオンを接待に使う会社は少ない。業種によるのだろうが、10代の頭の宜しくない女が騒いでいる様な店に行く機会は、幸い自分には無かった。


酒は弱い訳でないが別に飲みたくはない。飲めば頭の回転が鈍る。予測出来るものも読み違える。

その日しこたま飲まされ自宅に帰ると、珍しく七奈が来ていた。普段泊まらせない代わりに、合鍵は渡してあった。信頼していると示す為だ。

七奈の親は必ず家に送り届け、挨拶を欠かさぬ自分を過大評価していた。早く結婚してくれと言わんばかりである。

「勝手に来るな」とは言った。彼女にはLINEしたと言われる。了解していないのだから勝手に来るなとまた思うが、面倒なので言わない。

飲んでいるので送れない。既に朝方。タクシーで帰すには忍びない、だいたい彼女の親の心証も悪かろう。

シャワーを済ませ歯を磨き、疲労感溢れる中ソファーで寝る憂鬱を顔に出さぬ様、噛み殺した。

妙に腹を括った表情で、七奈が上に乗って来た。

大丈夫だろうといつも通り、避妊はしなかった。














subjugation/35 years old
subjugation/35 years old

35 years old

35 years old- Ⅰ


金銭感覚の無い輪華ではあるが、16で自立しただけはあり「お金持ちのご依頼人様しか視ないのは、良くない」と言い出した。

web鑑定参入は輪華が勝手にスタートし出したのである。


始めて直ぐに依頼者が殺到した。スタートすべきサイト,日時を輪華は、狙い澄ませていた。

彼女はいずれも短期間だが、20-21歳の時にも電話鑑定経験があり、32歳時はチャット鑑定経験があった。チャットに関しては充の目を盗んでいた訳だが、彼女は嘘や隠し事が苦手な為に充に露呈した。

電話にしろチャットにしろ占い会社のオーディションに合格してから始めるのだが、“稼げる占い師”は様々な要求を受ける。依頼者のみならず会社からも。


また同じ事の繰り返しだろうと指摘したのだが、輪華は限られた時間の中でも出逢いがある、學びがある、修業だという言い方をした。


その二ヵ月後に依頼者の多い輪華の負担を減らす為、自分も参入した。更にはその二ヵ月後に香雨,雪白もWEBでの活動を始めた。

【占室輪】……輪華の占館にはその後、瀧智慧、能生という占師が入るが彼らも一時期輪華に影響され安価でサイト鑑定をしていた。〔現在はWEB鑑定をしていない〕


これを占室所属占師全員が退いた事には、様々な理由がある。

輪華は体調が悪化し安価で大多数を鑑定するには、負担が大きかった事。所属占師、特に輪華と自分、香雨に偏執的な第三者より実質的被害が有った事。


プライベートとの折り合いが立ち行かなくなった者も居る。サイト鑑定の利益は強制でないが、寄附金にするを奨励していた事もあり、継続が厳しくなった者も居る。

WEB上ではマナーの悪い依頼者、そうなるともはや依頼者ではないが、それらに遭遇する率も高まり現実的に続けられなくなった、というのが実態だ。




5月の午後だった。

館で2人で居る時、輪華は「具合が悪いから、少し休む」と言って彼女専用の簡易ベッドに行ってしまった。熱が有る様子だった。


ドアは開けたが、中には入らなかった。ベッドで寝ている、もう彼女は既婚者、直前までこの意識は有った。


「何か買って来ようか」と言った、「何も要らない、一緒に居て」

これが答えであり、輪華が手招きし手を伸ばして来た。真剣な顔をしていたと思う。

彼女の手に触れたら、ありとあらゆる感情が堰を切った。

それはレイプ以外の何物でもない。輪華は体調不良で動けなかった、相手が動けない状況なら準強姦だ。否、完全に強姦だ。了承無き性行為であり、強要。


輪華は愕然としていた。何の予想も予測も予知も無く、いつも通り無邪気に手を握って欲しい、そう思っただけなのだろう。

必死で身を起こそうとしていた。これで抵抗か、と驚く程弱々しかった。

この女は無力だ、特に男の前では無力だ。身一つ守る事も出来ない。

全く理性が飛んでいたとは思わない。これらを目で追い、考えていた。輪華は壁に激しく右手、右腕をぶつけた。その手首を握って抑えつけたら凄まじい悲鳴を上げた。激痛からだったであろうその声が鼓膜を震わせた時、ぞくぞくする程嬉しかった。

もっと聴きたかった。輪華は悦んでいると思った。

彼女は目を固く閉じていた。その後は脱力していた。恐ろしい位すんなりと挿入出来た。涙を流していたが快感からであっても輪華は泣く。だからその反応と置き換えた。6年前は家に来たじゃないか、それからも好きと言い続けているじゃないか。

輪華は無言ではなかった。疑問な程喘いでいた。手が痛い、腕が痛いとは切れ切れに口にした。

痛いから抵抗せず最短で終わらせたかったのかも知れない。

避妊なんてしなかった。中に出した。

頭に無かった。彼女がディナゲストというホルモン剤を飲んでいる事は、知っていた。それを飲んでいる期間は妊娠しない……充の言葉を思い出す。片隅に記憶はしており、無意識にしたのではないか、自分は。


終われば輪華は淡々としていた。「シャワー」と言い、よろよろと立ち「ティッシュ」、「シャワー連れて行って」。


シャワー後に彼女の右腕が腫れた。色が変わっていた。動かせない、動かないと言う。

骨折……見て直ぐに判断した。

しかし鑑定が入っていた。輪華はそのまま鑑定に入り、充が迎えに来た。

「転んで、ぶつけちゃった」と彼女は充におどけて言った。

夜にLINEで「ヒビだった」と来た。

ヒビは骨折である。謝罪と治療費を負担する事、通院日は送迎すると送った。


輪華の答えは、以下のものだった。

「治療費は受け取る。でも通院は、充君が連れて行ってくれる。ちょっと変に思ってるよ、今日は高良といただけだし。

これからは、二人きりは止めようね。ああなったら、私には回避できないよ。


高良は私が好きだから、仕方ない。もう痛くない。この話はこれでおしまい」


会ってからも謝ったが、軽い口調で「知らない、忘れた、どこも痛くないもん」と言った。

しかし二人きりになるのは徹底して避けられ、車内で二人になった時にダッシュボード下のグローブボックスから物を取り出そうとしたら、明らかに怯えていた。


フランスに出張した際、現地の教会で告解をした。一応クリスチャンであるので、説諭を受けられる。

異国の風景は白昼夢の様な輪華との時間の記憶を、更に非現実的にした。

『見守る愛を貫くのですよ』温和な神父は、全ての話を聴いた上で、沁み入る声で告げた。





ある日館のトイレで、輪華が多量に出血し倒れた。

床が殺人現場の如く血みどろになった。

輸血の処置になった。

それを切っ掛けとして、輪華の体調は悪化して行った。

腫瘍マーカーの数値がべらぼうに高い。明らかに癌。子宮からの出血。

今度こそ、死ぬのか………と感じた。

ひどい焦りを覚えた。


様々な動きがある年だった。

七奈の妊娠、身に覚えはある。予定より早く結婚しなければならない。結婚に踏み切らねばならない。

「お腹が大きくなる前にウエディングドレスを着る」と七奈は譲らなかった。式の準備は何でも好きな様にして良いと言い渡して、考えた。

どうすべきか。これからどう動くべきか。



決意が固まったのは、些細な事である。

輪華の耳の下辺りだろうか、よく見なければ分からない位置に充が付けたであろう、皮下出血の痕があった。

──別れさせよう、二人を。


これ迄何度も思った事、想像し計画していた事が、急に現実味を帯びた。

洗面所にいた輪華に背後から近付いた。館には他に雪白も香雨も居た。気付かれぬ様にしただけだ。


後ろから引き寄せた。輪華は動作を止め、じっとしていた。

「もう遠慮しません」と宣言した。充の痕を塗り替える為に咬み、吸った。

皮膚が薄い部分の為、痛みがあった筈だが輪華は何も言わず、かがんで腕の中からそっと

身を滑らせた。








35 years old- Ⅱ

遠慮しません宣言に踏み切ったには理由がある。

海外勤務の予想される具体的な時期,期間,国を示したら輪華は「行かないで」と咽び泣いたからだ。

病気で死ぬ時が分かっているから、泣いているのではないか。10年以上あちらに駐在したら、今生の別れとなるから……輪華の泣き方は慟哭だった。


彼女の家の玄関で話していたが、恋人にする様に抱き付いてから「行かないで」「高良が好きだから」、その後玄関の絨緞の上にうずくまり激しく泣いた。今迄に目にした中では最も大規模な、直接感情を爆発させた泣き声だった。

彼女の娘は何事かと思った筈だ。奥の部屋に居たのだ。非常に聡い子供であり、こちらを覗く事もなかった。


もう一つ、館の仕事は何とか存続となる様に充を説得してから行くにしても、彼女は自分が居なければ息抜きも出来ず、充の所業を誰かに伝える事も出来ない。ある程度は彼女の姉に話せるにしても、輪華は「困っている」前提ではない。「-----という事があった」と事実を言ってくるだけだ。

姉は一度、彼女にDV被害者のシェルターを勧めたらしい。すると輪華は「充君を愛している、一緒に居たい」と何の照れもなく、答えるという事だった。

それにしては、自分に何らかの形で支えを要求しているのは確かだ。輪華にバランスを取るだけの為に、活用されるのはもううんざりである。



先ずは外濠を埋めて行く。

香雨に自分は20年以上前から輪華が好きなのだ、学生時に中高と付き合っていたが様々な理由があり、今こうなっていると話した。

更に充がDV加害者であると伝え、輪華は体調が思わしくないから別れさせる、協力してくれなるべく二人きりにしてくれ、と伝えた。

頼られた感涙なのか我々の昔話の一端が琴線に触れたのか、香雨は「どんな事でも先生方のお役に立てるならば致します、何なりとお申し付け下さい」との事であった。腹心の部下の誕生である。


雪白にも同様に話した。彼女は「気付いていた」と言い、「応援します、輪華先生を救って下さい」との事。

輪華の姉は「女々しい。止めときな、引っ掻き回すな」と言った。輪華がそれを望んだのか?との問いにはそうだと答えておいた。



さて、当の輪華である。逃げるかと思ったが出勤した。館で二人になる様、土日のスケジュールをいじっておいたのだ。それを知りながら来た事になる。

夏だというのに、厚いタイツを履いていた。警戒はしているらしかった。


その土曜日は手を出さなかった。依頼者の居ない時間、昔の様に膝の上に載せておき、脱がす事なく体を触っていただけだ。口以外の髪や耳や手や腕、肩や首や鎖骨辺りにキスはしたが、輪華はそのままサイト鑑定をしており動揺一つせず、されるままである。

こいつは意外に神経が図太いのかも知れない、と初めて思った。鑑定に集中する為、意図的にこちらを見ない様にしている。意志が強いのは知っている。集中力が有るのも知っている。それにしてもあまりな対応ではないか。

積極的に応じないが、拒否もしない。心の動きを探ろうと、じっくり観察しただけの日。



翌日は様子見を解除。

鑑定には出したが、輪華が控えの時間は拘束具と首輪、鎖で一室に繋いでおく。

やはり輪華は淡々としていた。「トイレは?」と尋ねて来た。「俺の前ではしたなく垂れ流せば良い」と答えた。水分は摂取させた。食事を彼女は元々、摂らない。


こちらが鑑定に出て談笑している間、輪華は静かにしていた。眠っている時間もあったが、その異様な状況下でサイト鑑定をこなしていたのには驚いた。


初めに「妊娠はしない。中に出して」と言った。言ったのだ。許可でなく要求として言った。それは形だけ愛情を示したのか、それとも本心での愛情だったのか、欲の訳もなく判断がつかない。衛生上は気を配る積もりだった。免疫が落ちていたであろうに、リスクを覚悟した口調だった。


その日は足枷だけ外しての性行為だったが、嫌悪も拒絶も無い。撮影下で自ら脚は開くキスは貪る、手枷で手を使えない状況で咥え出す、こいつはやはり真性の淫乱なのかと思った。だから充の様な男に捕まるのだ。


行為自体には満足したものの、非常に複雑な考えに支配された。

これは演技なのだろうか。統合された誘惑者の人格は彼女の一部、一面となっている。それを現しているに過ぎないのか。記憶は共有出来る様になった、それだけの事なのだろう。

演技でなく心底から不倫を受け入れているなら、充や七奈に罪悪感が無いのなら、この女は性虐待を受ける様な理由があったのではないか……


酷な身勝手な思考になる。当然ながら充に罪悪感は、自分の側は無い。

七奈にも無かった。最初から言っておいたのだから。不倫前提の婚姻だ。仮面夫婦も良い所である。妻の妊娠中に浮気する、馬鹿な男の図。それ程に事が安易であれば、どんなに良かったか。

どんな理由があれ、一人の少女が性虐待を受けてはならない。性的魅力が有ったから仕方ない、そんな訳が無いだろう。輪華に申し訳ないと思った。


その晩は何事も無かった様に、充と輪華の子供と雪白と香雨を連れ、食事に行った。

何事も無かった様に笑顔を振り撒いておいた。輪華は半個室の空間で、途中から横になっていた。



この夏もまた、濃度の高い液体の中に沈む様な日々だった。

仕事が緩かったというのもあるが、毎日短時間でも会う時間を作った。簡易ベッドが受け付けられないので、館にベッドを購入した。

香雨が簡易ベッドを使っていたので、輪華に嫌だと充へ言わせたのだ。(実際は彼女はそれ程気にしていない)


殆ど毎回撮影した。その内こうした事は体調によって出来なくなる。女としては最期の旬だろう。全て食べ尽くそうと思った。

男は女の記憶だけでも、果たして生きて行けるのだろうか。


無理の無い様に心掛けてはいたが、形だけだったと思っている。相当、好き放題振る舞って居た。体調は必ず聞く様にしたが、それも形のみ。

輪華は断らない。「高良のしたい事で嫌な事は、一つもない」と彼女は言った。


彼女用に購入した性具は何種類もあった。選ばせて使用した。子宮口の刺激を最初に受けると、確実に女は狂う。開発した男に逆らわなくなるが、輪華はとっくにこれに慣れていた。自分は気付いていなかったが、彼女は10代の時点で既に知っていたのだろう。器具であればピンポイントの為、「これとこれとこれ」(複数)と選ぶ。


互いに離れている間に試した事や学んだ事を、伝え合う時間にもなった。輪華は快楽を魔術同様、コントロールしていた。許可する迄、達さず保持と言えばその通りにする。

どこかで習ったとか訓練したとか、そんな事を疑う程統制されている。どこかに訓練場でもあるのだろうか。潮の積もりで刺激しているのに、尿まで区別無く出すだらしない女もいたが、彼女はきっちりとコントロールし分けていた。予め要望を尋ねて来る。「潮?お漏らし?どっち?」……透明無味無臭、区別して出す。映像的にAV並みである。


輪華は毎回、反省会までやり出した。大概は改善要求である。潮は我慢している間が気持ち良いのだから、乱発すれば良い訳ではない。無理矢理掻き出されても気持ち良くはない。

手技を昔教えた筈なのに、忘れたのか……etc.

しかし思うに、これは遊戯だと彼女は区切っている様に感じた。一緒に劇場を演っているだけ、フィルムを作っているだけ。恋愛ではない、と冷静に。聖女の顔をして実は男の愚かさを、嘲笑う強さが有るのではないか?だから充をあの様な形で、御しているのでないか。

好きかと問えば好きと答える。言うだけなら幾らでも言う、その様に捉えた。


尤も、人の言動は鏡である。こちらが即物的,短絡的になっているから即物と短絡で返す。近くに強い欲が視えるから、埋めてやる。この時期の輪華はそれだけだったかも知れない。



箝口具で口が閉じられない様にしておく。表情が見たいだけだ。声が聴きたくなれば外す。長時間口を開け続ける事は、意外に人体には負担が大きい。

輪華の体が軽量で扱い易いのを良い事に、ドアを利用して吊るす事もした。

ステンレス製の医療機器である、クスコ(膣鏡)を使った事がある。内部が見たかっただけだ。滅菌処理は当然した。

車の中で何度か抱いたが、停車の場所に苦労した。田園地帯、河辺、立体駐車場の暗がり。探せば色々とあるが昼間は、難航する。


一度、Sに病院で遭遇した。輪華を見ていた。輪華もSに気付いた。病院の駐車場でSが見ている事を知りながら車内で、ヒビスコール(速乾消毒)し輪華に指を挿れた。見られている為拒否はされたが、口でそのままさせた。自分はその間、Sを見ながら笑ってみせた。いい加減煩かったのである。

その数ヶ月後にSは自殺する。実家にSの親から葬儀の連絡が来た。友人としての参列を求められた。

死んだら家族が連絡する様、Sは用意して死んだのだろう。冥福は祈るが、これで脅威からは解放された。輪華や七奈に危害を加えられたら、堪ったものではない。犯罪に走るのはフェアではない。


輪華は苦しんだと思う。対面、WEB上と仕事は山程有る。香雨と雪白は遠慮がちに見守っている。家に帰れば子供の世話。家事。そして充の求めに応じる。


翌日触れていれば、充が何をしたのか断片的に感じ取れる。輪華は隠していたが、洩れて視える。

視えれば責めた。「充を愛していると言いながら、俺とも喜んで寝るじゃないか」「お前は状況を愉しんでいる」「巫女でなく痴女になれば良い、それなら一生飼ってやる」……

しかしそうした言葉を掛けると、決まって彼女は不正出血した。輪華は精神力だけで応えており、言葉での攻撃を避けずに受け体に現れていた。

その際は中断し血を舐め取った。謝罪したが答えは無かった。


七奈との結婚式。

輪華に祝福させた。スピーチさせ聖歌を披露させた。

式の前日も翌日も会った。



検査では状態が悪いと、徐々に明るみに出て行く。

焦燥と不安は有るが二人で居る時は一旦、満たされる。離れれば苦しい。希望が有る様にも絶望しか無い様にも思える。

体だけの繋がりの弱さ。輪華は心を開いている様には思えなかった。繋がれば繋がる程、自分の精神状態は混乱を極めた。



9月。

充の出張。彼女の子供は充の実家に泊まる。

充は輪華を彼女の姉の家へ、泊まらせると言った。

自分は七奈には出張と言えばそれで良い。

姉に「輪華と二人だけで旅行に行く」と申し出た。姉は口裏を合わせる事に了解したが、「殺すなよ」とだけ言った。


この時は奇妙な心境になっていた。

輪華以外の事象、事柄が今迄以上にどうでも良い。嬲り殺して彼女が死んだなら、それはそれだ。天に任せる。自分が何を赦され、何を阻まれるのか見たい。

犯罪者になっていたかも知れない。その前に一緒に死んだが、不名誉な泥を両親や親族、先祖に塗り付けたかも知れない。愛情の成れの果てと見る人間は、ごく少数だろう。


殺す以外のあらゆる事はしても、直ぐに死んでしまうような事、誤って命を絶つ事はしない様にしようと肝に命じた。

車内では二人とも無言だった。この関係になってからも、友人としての気安い話はしていたのだが。運転しながらずっと、左手で輪華の手を握っていた。彼女は力を抜いており握り返す等は、一切しなかった。


温泉地のホテルだったが、外には一歩も出なかった。台風直下の嵐だった。到着前に軽食は摂った。輪華はいつも通り、スープとサラダだけ食べていた。

部屋に入り、先ず一人で脱ぐ様に言った。彼女が好んで着る、青いワンピースの内の一着だった。(もっと良い服を買ってやるのに、充なんかを選ぶからだ)似合うとか何らかの感想の前に、その様に浮かぶ。どんな服装を目にしても。

「ところで排便の調子はどうか」尋ねた。彼女は嫌そうな顔をした。出しておかないと後ろが使えない。医療行為に入るから、したくないと輪華は言った。顔色を見るに体調は平常だ。その平常が病気ではあるが。

「見たい」と言った。輪華は頷いて後は何も言わなかった。

粛々と過ごしていた。口にして良いか尋ねた。嫌悪感を露にした彼女の表情を、初めて見た。その表情を目に出来た事が嬉しかった。

味に興味は無い。口にし飲み込む過程だけが重要。スカトロに拘りは特に無い。輪華以外にはしない。

これらはトイレと浴室で行った。

長い長い時間、その後はベッド上だけで過ごした。バスタオルを敷き詰めておき、彼女が排泄したら飲む様にした。水分だけは摂らせた。

彼女に処方されている利尿剤、漢方なので効果は薄いが水分を多量に摂取させ、我慢させた状態にした。快感の増幅の為だ。快楽で縛れるなら、縛っておけるのならと願っていた。

性の追究は人を生かすと考えた。だから10代であれだけ追い求めたのではないか。

輪華はやはり二人の時間のみに埋没せず、知人にメールしたり僅かだがサイト鑑定をした。映画も観ていた。手首と足首を縛った状態だった。不自由にも見えない。状況に適応する能力が高い。


眠り、あの赤黒い夢を見た時間もあるが強度の非現実感に支配されたままだった。輪華を支配した積もりで居るが、支配され切っている。

いつから自分は囚われているのか。いつから出られなくなっているのか。

回復したら求める、その繰り返し。こうした時間に、輪華は慣れていた。他の男とも過ごして来たのだろう。泥々とした男女特有の時間を。

抜け出せない圧倒的な心地良い空間。

輪華は持って来たぬいぐるみを抱えタオルを握り締め、少女どころか童女の風情で眠っていた。


朝は勝手に来る。来ぬ様に願っても来る。

チェックアウト前にもう一度と言った。細い首を、意識を落とす為でなく絞めた。死んだら楽園が在るだろう。

輪華は目を閉じていた。それから開いた。何でもない事のように、また。

何をしているのかと、神に問われている気がした。静謐な光を湛えた、赤ん坊か動物の様な無垢な目。

白目に赤みが差していた。顔色は赤だった。

手を離した。出来ない。出来ない。

出来なかった。殺してやれなかった。これから苦しむしかないだろうに。

輪華が激しく咳き込んだ。輪華の名前を呼んで泣いた。頬に内出血の痕、首にも指の痕、彼女はファンデーションでそれらを誤魔化した。













36 years old
36 years old

36 years old -Ⅰ

子宮癌ステージⅣ-a

5年生存率16%


輪華は徐々に腰や背中が痛い、お腹が痛いと言う様になった。時に激しい下腹部痛があるらしく、その際は動けずに膝をついた。

癌の浸潤が骨盤壁に達した状態。血便血尿も有り調べたが、直腸と膀胱には浸潤しておらずストレスとの事。


性交時出血が増した。輪華はそれでも大丈夫だと言った。所作を中断すると「充君はするのに、高良はしないの」と言う。「充君は死ぬ迄してくれる。高良は?」

俺には出来ないと答えた。血を舐めた。


超音波検査,CT,MRIにより肺への遠隔転移が見つかる。ステージⅣ-b 絶望的


充は冷静さを失っていた。死ぬんだ、と呟いた。口の中だけで呟いていたが、輪華には聞こえていた。

治療方針も判断出来ない。友人でしかない自分が付き添い、医師の話を聞く。担当医師は

どちらが配偶者なのか、混乱していた。又は一方を兄なのかと訝っていた。まさか不倫相手が来ているとは思うまい。


ホルモン療法を選ばず、切除と抗癌剤,放射線治療を組合せる事にした。医師と相談したのは自分だが、再度フリーメールアドレスからイシキへ連絡したら返信が有ったのである。


【輪華は手術を受けたがらないが、切って叩く医師の定石がやはり正しいと考えている。充は使えない、後はこちらに任せて欲しい】と伝えた。


イシキは【日本は外科至上主義国です、アメリカで放射線治療を受けさせれば良いのでないですか、治療費は嵩むにしろO(充)と別れさせるのでしょう、あなたにはその治療費を支払う事由と甲斐性がある筈ですよね?】この様な内容だった。

相変わらず突っ掛かる文章ではあったものの、現在の関係を認めている印象だった。自分は充が長年、輪華に攻撃的であったから発症したと考えていたのだが、イシキの視点では充のみならず自分も元凶,一因となっているらしかった。


輪華が激痛に堪えている姿を見る時、意識の片隅であの時楽にしてやれなかった事が悔やまれた。今この痛みを逃してもまた次の痛みが来るのだ、切る迄は。切るにしろ精神力が必要、輪華は覚悟なんて出来ないと泣く、切ったとしても今度はその痛み、そしてその傷も癒えぬ内に抗癌剤だ。かなりの確率で吐気と嘔吐に苦しむだろう。更に痩せる。髪が抜ける。

幼少から苦難の波に堪え切り、その毒に冒される事無くマリアの様に人々を助けても助けても、この仕打ちか。神とは非情だ。そんな神に輪華は渡さない。

二人だけで居る時、無防備な彼女の首に手を伸ばした。今なら。それとも顔にビニールでも被せるか、ちょっと抑えて居ればあっという間だ。酸素が脳に行かなければ意識は朦朧とする。苦しむ暇もない。驚いている内に終わる。




そんな事を考えていた時期だった。夕方、仕事中に輪華から電話が来た。「今日ちょっとだけ家に寄れない?」

珍しい事だった。急いで会いに行った。

輪華は玄関先で、静かに穏やかな口調で語り出した。

「紅子(こうこ・仮名・輪華の娘)はあなたの子です」と口にした。

天地がひっくり返ったとしても、これ程は驚かなかっただろう。この生涯で最も驚いた事だ、先々にもこれを超える驚きは無いだろう。膝から下の力が抜け、輪華に対し膝まづいた。今こそ聖母に見えた。

輪華はDNA父子鑑定報告書を見せてくれた。報告書込で25000円程度だったと言い、充の報告書も取り出した。このラボは裁判用と同等の精度だと言った。通販の手軽さでキットを郵送している訳だ。充には内密に、充の鑑定もしたと言う。自分が疑う事を見越して対照を示したのだ。


(毛根が付いた)髪複数本、口内(上皮)細胞の付着した綿棒が2本、そして精液。いずれも寝ている間に、これら検体を採取したらしい。「綿棒はね、乾燥させて送ったの。水分があると微生物が増殖するんだって。精液はさ、あなた達二人とも避妊してないから。お尻は感染症が起きやすいから、さすがにゴム着けるじゃない?だから捨てないで、冷凍したの」輪華は少女めいた声で、たどたどしく話した。


娘の検体は毛根と口内細胞のみ。

「他に充君の精子検査もしたの。高良もしてみたら?これは私的鑑定だけど法的鑑定を高良がするのなら、紅子の検体は提供するね」との事。

当然行った。紅子の生物学的父親は、間違いなく自分だった。

紅子の姿形は輪華に似ており母親譲りの声でこましゃくれた事は言うが、幼児と思えぬ頭の回転の速さは充に似たと思っていた。赤ん坊の頃の顔にしろ今の顔立ちにしろ、気にした事はなかったのである。

輪華は「だから私は未だ死なないし、殺されない。充君にも高良にも」と言った。


どうやら彼女はこの秘密を、墓場まで持って行く積もりだったらしい。他の男の子供を身籠って迄、充と結婚したかったのかは疑問に思っている。

妊娠を隠し通せる訳がなく、充は手放しで喜んだのではあるまいか。嘘と隠し事が下手な輪華が、彼の笑顔に応えた結果なのだろうか………しかし、自分は知らなかっただけで確実に犠牲になっている。


輪華は人の欲に対し、どこ迄も応える所がある。充の「女の子供が欲しい」欲に応え、自分の「輪華と寝たい」欲に応えた末路がこれなのではないか。充は乏精子症だった事が明らかになっている。


輪華は闘病し生きると言った、充に殺される様な事も避けると言った、だからおかしな考えを抱くなと切り札を示したのだ。これで自分は輪華を殺せなくなった。自殺も考えられなくなった。紅子の親権を勝ち取り、紅子を育てねばならない。輪華と育てねばならない。仮に彼女が先に死んでも、後を追えない。

輪華につけられた首輪は重かったが、これを望んで望んで眠りに就いていた16の頃を思い出した。神を信用しないと言いながら神に祈っていた、愚かな少年を主は見ておられたのだろう。



輪華に指輪を渡した。七奈の結婚指輪を購入する際、他の店だが選んでおいた。七奈との式では、誓いを実は立てていない。内心「諸事情有りますがこの人でなく輪華と結婚します、後日やり直しますので一つ宜しく」とは言ってある。

輪華が喜んでいたかは判らない。「私達はお互いに既婚者だよね?」と言いサイズを確かめ(急激に痩せて来ており緩かった)「まだ車に置いておいて」と言い、窓外に目を遣りながら泣いていた。


七奈との結婚生活は新婚でありながら全く、上手く行っていなかった。

帰宅が深夜であり夕食が待っているが独身時代同様、外で摂っていた。接待も多い。

不満は無い。部屋は常に片付いている。夕食は作らなくて良いと言っていたのだが、用意されていただけだ。

強いて不満を探して言えば、カードの請求額の桁が違う位だろうか。100以下なら別に良い。例えば服で60万遣いました、であれば良いのだが請求が毎月200程度となると、流石に一言無いのかとなる。投資家としての側面は、努力の結晶で成り立っている。

家庭に関心の無い夫、明らかに他の女を見ている夫、妊娠中の妻を表面上しか気遣わない夫。買い物依存は七奈の怒りの表現だった。


七奈は輪華の対面鑑定に、自分の目を掻い潜り出掛けてしまった。30分しか時間の取れなかった輪華に5万支払い、「別れさせて欲しい」と願ったのである。


七奈の欲とは全て正直なものでしかない。思春期に憧れた相手と結婚したい、その子供が欲しい、目についた綺麗な品々が欲しい、結婚したら詰まらないから別れたい。

七奈は自分に結婚を申し込んだ際、他に男が居た。そちらを確保してからこちらに結婚したい、と申し出ている。あざとい、計算高いとは思わない。その程度の計算は保身の為、誰でもやる。


新居のクローゼットには、封を切られていない袋が溜まっていた。購入時の高揚感だけで満足なのだろう、そして虚しくなるのであろう。

輪華を責める謂れは無い。世間一般では謂れは有るのだが、七奈には無い。七奈は「先輩に返します、ごめんなさい」と言ったらしい。


輪華がどの様な思いだったかは、これも判らない。子供を望まれ子宝祈願し授かり、今度は別れたい別れさせてくれと望まれる。


依頼者とはこの様に勝手極まりない。思い通りにならなければ、待てずに焦れて占師を責める。全員とは言わないが、6割強。パターンとしては少なくない。



七奈は自身の実家で過ごす様になった。LINEで「今日は実家に泊まります」「了解」のやり取り。それが週に3日になり5日になり毎日になった。



そんな日々の深夜、輪華からの電話。

はっきりと「助けて、高良、助けて」。

直ぐに迎えに出た。待っていた。この、助けを求められる日を。

実に不思議な事があった。写真でしか見た事のない、輪華の本当の父の顔が脳裏に広がった。行け、という口の動き。発声。確かに聴いた。輪華が3才の時、39才で死去したという彼女の父は状況を見ていたのだろう。


その少し前にも、連絡が来た事があった。その時は輪華に、迎えに来なくて良いと言われた。充に全裸でバルコニーに出され、悲しくなっただけだと言った。「高良の声を聴きたくなっただけ」とも。


癌の痛みがある妻を、雪国の秋の夜に全裸でバルコニーに閉め出す夫。充は感覚が麻痺している。

また同じ様な事が有ったのだろうと思った。輪華の自宅マンションの駐車場に入った時、彼女がエントランスから出て来た。

歩き方がおかしかった。脚に何かされたのかと最初は思った。輪華は血が出ているから、おむつをしている、病院に行きたいと言って泣いた。


何をされたのか尋ねた。輪華は、「充君の二の腕位の太さの、玩具を挿れられそうになった」と紫色の唇で言った。チアノーゼが起きている。

当然だが入る訳がない。入った所で内臓破裂である。充は「少しずつ頑張ろうね」と言ったらしい。輪華はそれに恐怖感を覚えたのだ。


海外でその様なフィルムなりショーなりあるが、体格がそもそも違う。相当な訓練を重ねる。それが仕事なのだからサーカス団や、スタントマンの様なものだ。薬を使う場合もある。プレイが可能な様、手術でいじっている場合もある。


れっきとした傷害である。救急外来で麻酔を打たれて縫われていた。当直医に事情を話し、所見を書いて貰った。翌日改めて婦人科へ行き、診断書を取った。全治1ヵ月。傷自体は2週間程度で治るが、性行為が1ヵ月不可という意味である。

痛みは麻酔で無くなったが、吐き気がするとの事で吐き気止めを処方され、その場で飲んでいた。


充にLINEしたが寝ている。既読にならない。

輪華は書き置きをしたと言う。

痛みが強い事、出血が止まらない事、恐怖を覚えた事、病院に行く事(高良と、と明記)。紅子は迎えに行く迄、充の実家で見て居て欲しい事。直ぐに迎えに行く事。


紅子に関しては充は実家を頼る以外、選択肢があるまい。早めに迎えに行かねばならない。


輪華は処置の間も泣いていた。ずっと手を握っていた。輪華が手を離さなかった。

七奈が仮に自宅に居れば、ホテルに泊まった。しかし今、もう七奈は居ない。離婚は時間の問題だった。


輪華は泣き止まず「助けて」「一緒に居て」を繰り返す。高良、と呼ばれる度に中学生の時に味わった強烈なあの感覚、只々輪華を救わなければという想念だけに支配された。彼女に呼ばれる、それだけで鳥肌が立つ様な喜びがあった。全身と全霊が呼応している。


やや精神状態が退行している様に見えた。

トイレにもついて来る。服を着替える為に手を離すと「手、手、手」と言って泣く。

ベッドで胎児の如く丸まった輪華を、体全部で包み込んで眠った。彼女は赤ん坊の様にこちらの指を唇で噛みながら、眠った。

The baby is a little over a year old.
The baby is a little over a year old.

36 years old -Ⅱ

翌日は朝の内に充の元に向かった。輪華は死んだ様に眠っており、起きなかった。


充は園バスに紅子を乗せ送り出した後であり、初めて彼の元から逃げ出した輪華に明らかに動揺していた。それでも未だ少し謝れば、やり直せると甘く踏んでいただろう。


自分の携帯にも輪華の携帯にも着信があった。輪華は起きなかっただけだが、自分は敢えて電話を取らなかった。直に話す問題だ。

エントランスで輪華(と充)の自宅の部屋番号を呼び出すと、インターフォン越しの充の声は聞いた事が無い程に硬質だった。


輪華が昨日迄居たからか、特に乱れもない普通の家庭の朝のリビング。図としては善良な夫と、その妻を寝取った極悪な友人だろうか。

充は仕事前。手短に話す。


「お前のした事は犯罪だ」そう告げた。それに答えず充は「輪華は?」と言った。「輪華が診断書を元に被害届を出したら、お前は会社に居られなくなる。解るか?」重ねて告げた。「俺は何もしていないよ」充は本当に疑問には思っていない、誤魔化してもいない。何の事を言われているのか、真に解っていない。

「お前は夜、輪華に何をしていた?何を挿れようとした?あいつが癌だとか関係無く、死ぬぞ」冷静に話そうと努めていたのだが、充の奇妙な純粋さに苛苛して来た。

クローゼットの中、輪華に裂傷を作った器具が置いてある。紅子の使わなくなったクーファン等と共に。そのシュールな組み合わせ。


その器具を充の肛門に突き挿してやりたい衝動に駆られた。腸が飛び出た所で人間は未だ死なない。

充は「輪華はああいうのを望んでる、死のうともしてる」と言った後、「いつから輪華は高良の家に行く様になったの?」と逆に尋ねて来た。いつから不貞行為があったのか、という事だ。

正直に答える必要は無い。笑いながら「あいつは中2の時から家に来ていたよ」と答えた。嘘ではない。

詭弁で返した事で、殴り掛かって来るのを期待した。充に一瞬怒りの感情が膨れ上がるのを感じたが、直ぐに抑制したのが分かった。充は決して馬鹿ではない。


「輪華は俺と住むよ」と続ける。「うちももう離婚だ」

充は質問を重ねようとしていたが、今日の所はこれで充分である。携帯はボイスレコーダーにもなり、大変便利である。


駐車場の車の中で、充の実家に電話した。父親と話した。こちらも録音。こうした事柄は、徹底して臨んだ方が良い。後々言った言わないで揉めるのを防ぐ為。


夜間に充がしでかした事。輪華が助けを求めて来た事。未だ警察には行っていないが、輪華の意向次第である事。紅子共々、こちらで預かる事。

当然だが充の父親は、輪華と自分が不倫関係にあるとは思っていない。更には、こちらが離婚予定とも思っていない。配偶者(七奈)の居る家に居候すると思っている。

輪華が充を訴えるという想像は、していない。実際にそれは無いが。



一仕事終えて自宅に帰ると、輪華は起き出していた。所在無げに不安げにソファーで膝を抱えていた。「充と話して来た、充の父親とも話した」

「紅子は……」と言った輪華の声は、昨夜の時点で気にならなかったがひどく掠れていた。充がそれをしていた間、輪華はおそらく大声で叫んで泣いたのだろう。

「夕方迎えに行くよ」優しい声音を意識して言うと、輪華は両手を伸ばして来た。か細く弱々しい体を抱き上げながら、次にすべき事、その次にすべき事を考えていた。


輪華が家に居て妻として、過ごす事をどれ程望んだだろうか。未だ仮初めではあるものの、彼女が朝食を作ってくれたその日、窓からは陽光が溢れていた。それは祝福を受けた食卓だった。


七奈が帰らなくなって暫く経つ為、家には食材が最低限しか無かった。その時に輪華が作ってくれたのは、ホットケーキの生地(卵無し牛乳無し)に缶詰めのツナと、ワインの摘みのウォッシュチーズを挟んだものだった。

結論を言うと味は良かった。輪華の料理は破天荒である。

それ迄は七奈が居ても、一週間に一度業者に掃除を頼んでいた。輪華は必要無いと言い、日中に少しずつ家事をすると言った。


館での対面鑑定,サイト鑑定共に制限。対面鑑定は祈祷や護符込みで1h10万の設定にしたが、それでも予約が入る。輪華の主な顧客は弟子に譲っていた。どうしてもと輪華を所望する顧客は、地元でそれなりの地位にある人間だけである。


帰宅すると輪華が居る。紅子は既に就寝していたが、家族としての形で過ごせている。破天荒な夕食には毎日目を見張り、一通り何が入っているのか確認してから食べてはいたが。結論を記すと味は良かった。


七奈には輪華が家に避難している事を告げ、司法書士に依頼し正式に離婚手続開始となった。

充は輪華との離婚に、割合すんなりと合意した。彼は「浮気する女」が最も嫌いなのだ。最初は慰謝料を求めると言っていたが、ならばこちらも被害届は出すと言った。金で解決するなら話は早い。慰謝料を支払うにやぶさかではない。だが、輪華のこれ迄に負った痛みの制裁は受けて貰う。社会的に。

すると充は一転し、「慰謝料は要らない、代わりに内密にして欲しい」と言い出した。


面倒なのが紅子の親権者問題である。輪華は充に、紅子の父親を明かした。

電話での事だ。少なくとも怪我が治る迄は、充に会わせる積もりはなかった。二人の会話はスピーカーにし聞いている。次いでに録音もしている。


すると充は輪華を責めず「何となく感じ取っていた。高良の子供とは思っていなかったけど」という返答だった。

別れた脳外科医と会っていたのかも知れないと、充は疑っていたのだと言った。紅子は3歳になるかならぬかで読み書き、簡単な計算をしていた。一度見た物を細部まで記憶し、絵に描いた。


脳外科医については的外れである為輪華も感知せずにいた様だが、では産後にDVが加速したのはそれが原因だったと言える。

尤も充は数々の暴力行為を輪華に求められた、と主張し愛情表現,愛着の現れといった言い分であった。


親権,身上監護権については「争っても負ける」とし、予め争わない姿勢であった。但し紅子には時々会わせてくれと要望を出した。一週間に一度、公正証書(協議書)記載の事項だが、現在特に制限はしておらず一週間に二,三度会わせている週もある。


この時は充でなく充の実家が話に割り込んで来、少々揉めた。理由はどうあれ輪華のした事は不貞行為である。こちらとの情交関係の末に紅子は産まれている。

親子関係不存在確認訴訟を行い、紅子はO(充)家の遺産を放棄させる。しかし監護権は欲しい。都合が良すぎる要求。

充はA型、輪華はO型、自分がAB型、紅子がA型。血液型から判別出来ない為、法的DNA鑑定の結果が必要になる。

揉めているのはさておき、認知調停はこちらでさっさと申立てた。DNA鑑定で充の認知は無効になる。裁判になった所で、勝算はこちらに有る。


問題が全て直ぐに解決する筈もない。しかし束の間ではあるが、輪華と紅子と日々を過ごしており非常に安らいでいた。

輪華の病さえなければ…………


それだけでない不安要素は幾つか有った。輪華は充からの電話を取ってしまう。LINEも返す。

朝は新妻の様な顔であれこれ家事をしてくれるが、自分が出勤すれば元の自宅(充の家)に行って家事をする。本来、療養しなければならないというのに。タクシーを使って出掛けてしまう。充と同等になりたくない為、現金は持たせていたが輪華はカードを使っていた。

充には1ヵ月は会わせる積もりがなかったというのに。


更には言われるまま充の家に泊まろうとする。輪華は未だ怪我をした状態。しかし自分は充の事等、信用していない。

紅子と共に夕方、充の家に輪華は居る時もある。そうすると紅子だけでも一緒に居たいから預からせてくれ、と充に求められる。輪華は断れなかった。充の実家に対しても、同じ事だ。


おもねり、ご機嫌取りとは思わないが上記の事柄に苛ついていると、顔に出していないのに輪華は気付く。口でする、手ですると言い出す。充にも同じ事を言っているのではと思う。気分じゃないと言うと泣く。輪華が泣くとどうにも流される。そして有耶無耶になる。


夜中に輪華は魘される。うわ言から判断するに、充から逃れる夢を見ている。それが途中から「高良、怖い、怖い」に加え絶叫、元凶がこちらになっている。助けを求める声でなく、怯えるだけの声。その後むくりと起き出し、こちらを見て沈着な男の声で「ほら。だから言ったじゃないですか」。イシキ出現である。殆どホラーサスペンス並。


輪華はこれらを記憶していない。イシキとは未だに、人格同士の交換ノートで話すだけなのだ。

統合の際に治療中に用いたノートであり、中には幼児人格の絵であったり主に、18歳男性人格との質疑応答等が書かれている。

輪華にとってイシキとは、謎の存在であるとの事。常に見られているが、不快ではないと。直接は何故か話せない。語り掛けても応えず、重要な問題の答えのみノートや手帳に助言が書いてあるらしい。


何故か輪華はイシキとは呼ばす「ヨウ君」と呼ぶ。別人格の事ではなく、イシキに対しての呼称である。彼女にとっては異性でありながら安全な存在であり、激しく転んだ際等に一時だけ意識が無くなる。次に気付くと、湿布が貼られていたりするそうだ。


断薬の際には余りにも苦しく「意識が抜ける」時があったらしい。すると意識が抜けていたと覚しき数時間の、服薬レポートがある。ここにそのレポートが残っている。

メイラックス1/12T 21:20 37.4℃ 当帰芍薬散 

といった風に、細かく記載がある。不調は漢方で対処していた様だ。




輪華は帰宅すると居ない時があり、その場合は紅子と共に充の家に居る。

特に今後の彼女の仕事について口を出すと、充の家に行ってしまっていた。


その日も迎えに行ったが夜中だった為に紅子は寝入っており、輪華だけ先に車に居ろとキーを渡した。充と話す事があったからだ。

30分程度の話し合いの後、駐車場に行くと輪華は倒れていた。

晩秋の夜。低体温症を起こしていた。

そのまま入院となった。













36 years old -Ⅲ

輪華の入院中、七奈との子供が産まれた。七奈に希望された通り、薔薇を100本贈った。輪華はベッド上で七奈に祝いのカードを書いていた。


12/4  外泊し知人の神父が在る教会に於いての司式。輪華と誓いを立てる。入籍は後になる。

〔夫婦は誓い合ったその日に成るのでなく、慈しみ合った歩みの末に成る〕〔家庭が愛で満ちれば地域が愛で満ちる、そして都市が国が世界が愛で満ちる〕こうした説教は昔から聞き流していたが、輪華が隣に居れば耳に入って来る。


アメリカでの治療の話を持ち出すと、担当医等は良い顔をしなかった。日本の医師、特に外科医は自らの腕に絶対の自信を持っている。それは悪い事ではない。実際に日本人は手先が器用であり、外科技術は世界でも最高峰。切れば何とかなると思っている。

あながち間違いでもないのだろうが。要するにプライドを傷付けるなという事である。


渡航を視野に入れながらも輪華の状態は急速に蝋燭の火が小さくなる様に、目に見えて悪くなって行った。

痛みを感じにくくする為、神経ブロックの処置。神経を麻痺させる。そしてオピオイド。

フェンタニルという貼り薬だが、皮膚から薬剤が血管に入る。効果はモルヒネと同等。


輪華は起きている時は未だ、手術をしたくないと言った。そのままで居ればおそらく、緩和ケアだけで終わったかも知れない。彼女は積極的な治療をしたがっていなかった。充は

「輪華は死にたがっている」と言っていたが、彼なりに感じた答えがそれなのだろう。


自分は輪華が死にたがっているとは到底思わないのだが、かといって貪欲に生きようとも

していないと感じていた。輪華の無欲。この様な生きるか死ぬかの局面で、無欲とは人を生かさない。生には見苦しく貪欲であった方が良い。


目にする分には、いつ死んでもおかしくない様相だった。死相、死の影。輪華はこれ迄に何度、これを振り払って来たのだろうか。


もし何か有ったら、紅子は海外に連れ出すと輪華に持ち掛けた。充の実家はどさくさに紛れ誘拐する勢いである。輪華に英語で委任状を書いて貰い、パスポートと共に保管しておいた。親権者の委任状が無い場合連れ去りと疑われて入国が許可されないからだ。


委任状を書いた後、輪華は急に「手術する」と言い出した。彼女には彼女のタイミングがあるのだろう。どんな時でも誤る事は無い筈だ。

緊急ではなかったがオペはかなり急遽、準備された。担当医は用意周到であった。

麻酔や術前の説明は輪華の代わりに聞いた。彼女は聞いていない様に見えた。

前日に下剤服薬と除毛、シャワー浴。手術中,手術前後の全身管理の為に点滴。

当日は脚に血栓が出来るのを防ぐ為、弾性ストッキングを履いていた。


手術自体は5h程度、成功。ICUに移った。酸素マスクだの点滴だの尿管ステントだのに繋がれて、非常に痛々しい。

心電図に異常が見られたのは、その後だった。基線が波打つのみ。心室細動だった。

ああこれはもう駄目だと、確信した。

スタッフが集まって来ていた。輪華の姿を目に焼き付けた。最後に見たのは顔でなく卵を持つ様に軽く指の曲げられた、彼女の手。死人の手だと思った。或いは造り物、象牙の彫刻。


紅子を保育園に迎えに行き、そのまま空港に向かった。涙が脳の血管の動きに合わせ、どくどくと流れ落ちて行く。紅子に隠す余裕は無い。紅子も泣いていた。何が起きたか分かるのだ。



館の人間、両親には辛うじて連絡を入れた。雪がちらついている。地上は汚らしい。それを浄める様な雪だった。輪華は死んだのだと、忍び寄る様に囁いて来る。


機内で紅子がぼんやりと、観るともなくディズニー映画を観ている時だった。自分も何かする気にはなれず、紅子と同じく観るともなく目を遣っていた。その時に、ふと輪華の匂いがした。

膝の上に幽かな、実に幽かな重みがあった。───居る。

輪華だ。

顔をずらして更に目の前の空間の匂いを確かめた。輪華の匂いがする。確かにする。

先ずは幻臭を疑った。自分が幻を視たいだけかも知れないではないか。人の脳は案外と簡単に狂う。

しかし肩に凭れ掛かって来る気配、手を繋いでいる気配、紅子の頭を撫でている気配、生きている輪華がする仕種がそのまま目に浮かぶ。

語り掛けると、直接の言葉ではないがこちらを見上げている。ここに居るから大丈夫だ、という意味に取れた。

何だ、居るのか。死んでも関係なかったのか……………お前は近くに居たのかと、深い安堵の中で仮眠を摂った。よく眠れた。



パリには5日しか滞在しなかった。紅子は街並みなり擦れ違う人々なり、食事,建造物,雑貨とあらゆる物を見ていた。日常から離れてみた所で、母親が居なくなった事実は変わらない。輪華の気配は寝入る時に感じ取っていたらしいが、翌朝は夢を見たと紅子は言っていた。そして泣いた。


輪華は自分が目にしている物は、同じ様に見ているらしい。きょろきょろと見渡す気配を感じる。夜は最も気配が濃くなり、直ぐ隣で眠っている。生きている時同様、腕の中にすっぽりと収まっている。あれを性交と言い表すのが正確かは判らないが、最初から繋がった状態で多幸感だけに身を任せるだけで、これは望めば一晩中でも維持が可能だった。

日中は何らかの些末事があるが、それでも維持しながら雑用をこなす事も可能。



日本でなく暫くこちらで過ごす事を考えていた。輪華の闘病は仕事より優先される為、とっくに退職していた。考えてみれば輪華以外に切実に大切な人間とは、この世に紅子と両親しか居ない。両親には時々会いに日本へ帰れば良い。移住でなく3ヵ月毎。

紅子と共に教会ボランティアに参加し、勉強は自分が教える積もりだった。小学校は考慮せず中学校は日本と考えていたが自分の先の身の振り方同様、未定だった。生活費は余程無計画な遣い方をしなければ、生涯食っていく分には問題が無い。紅子の教育費も問題無い。



占室の能生からの連絡で日本に直ぐ様、帰る事にした。他からの連絡は無視していた。煩わしいとしか感じられない。

能生はそれを知っている筈である。連絡して来るとは思っていなかった。彼からの連絡内容は事実だけが述べられていた。


【O(充)さんが自殺しました。縊死未遂ですが首を吊った際に一時的に脳に酸素が行かず、言語障害が残るそうです。麻痺も出ると言われています。▲▼▲病院のicuに居られます。

輪華先生は危篤状態から持直しました。】



輪華の幽かな気配は、隣に在るままだった。紅子と共に日本に帰れば、意識を完全に取り戻すのだろうか。

充。あの天真爛漫な男が、自死を選んだ。そこで初めて認める事が出来た。──充、お前、輪華を愛していたんだな。

逆の立場なら自分も同じ事をしただろう。但しもっと確実に。

結局は最初に予想した通りだった。充は輪華によって人生を棒に振った。充が望んだ事だ。



日本に戻って輪華の病院へ行った時、彼女は病室でなく処置室に居た。既に意識を取り戻したばかりでなく点滴を抜いて下の管を抜きマスクを取り去り、洗面台まで這って行ったそうだ。化粧水の瓶を洗面台に叩きつけて割り、左の肘を傷付けている。腱が損傷した。

輪華は何を知り何の為にそれをやったのか。充について知る由もない筈が。「充君が治る様に代わりにした」のだと、輪華は当たり前の様にかなり後日になるが話をした。

主治医は病状を苦にしての自損行為、又は譫妄と見ている。



暫くは緘黙(話さない)状態が続いた。紅子が来ても話さない。抱き締める撫でる手を繋ぐ、この程度はしたが笑う事もない。日に何度も涙を溢れさせる。


充が集中治療を終え一般病棟へ移ったタイミングで、微笑んだり窓から外を見、聖歌を口ずさむ様になった。夜眠る前にこちらの手指を求め、舐めたり甘噛みするという幼児癖が再び見られる様になる。



そして12/28  20年前輪華が消えた日

今は二人で居た。どれだけの事が降り積もり、それを二人で越えただろうか。今では紅子も産まれた。紅子は6歳。6歳になってから改めて目の前に現れた天使だった。



輪華は退院後に紅子と二人で暮らすと言った。充の面倒を見に通う、高良の家にも行くと。入籍はすると言ったが、あくまでも充を気に掛けていた。


不動産会社に勤めている輪華の姉に、充を含めて暮らせる物件探しを依頼したのは成り行きでしかない。姉は全員で暮らせる訳がないと、充の自宅近所にあるマンションを押さえてくれた。オーナーが同一である。別棟。

充はそのまま自宅に残り新たな家族は家族で暮らせば良いと姉は言っていたが、輪華の認識は“同居”だった。

それが証拠に、輪華は充に会いたい時に会いに行ってしまう。小鳥の様な木枝の様な脚で、こちらの家から逃げるかの如く走って行く。走ってはいけないと言っても走って行く。走る事は既に心臓への負担を鑑み、禁忌だった。



充は下半身(両脚)に麻痺、言語障害が出た。現在(2018/9)は車の運転が可能になっている。言語障害のみ未だに回復していない。

入浴の介助は毎日していた。友人とはもう思っていない。あちらも同じ思いだろう。

生活費の面倒も見る事にした。一部負担でなく全額だ。充が本来得られた月収。輪華が充を助けると言っている以上、代わりにやるしかない。

手が足りない為、ヘルパー兼家事代行を頼んでいた。充の父親は介助に来たのだが、母親は精神的に病んでしまった。鬱と聞いている。



充には複雑な感情が有り、消える事は無い。輪華は現在はしていないものの、充に会えば性の介護をしていた。口内に炎症が起き易い、すると食事から益々遠ざかる。止めさせる迄に苦心した。

「手より口の方が早いんだもん」と言い、自分に対しても同様にやっつけ仕事だった。


充は充で当然の行為だと考えている。それが分かって以降、充の前で輪華に口づけたりしていたのだがそれ以上が出来ないので飽きて止めた。輪華が万全であれば充に何を見せていたか分からない。















36 years old -Ⅳ

空恐ろしい位に平穏な、幸福な日々が紡がれた。回復に伴い充は自ら離れて暮らすと言い、再就職先も見付けてきた。彼はオフィスで首を吊った。そちらに戻る事は無かった。


紅子は充に対しても自分に対しても、一定の距離を置いて接して来る。赤ん坊の頃から充は多忙な父親であり、接する時間が少なかった。

自分は輪華の友人の立場でしかなく、「よく家に来る親戚」といった感覚だったであろう。それがいきなり「本当のパパ」。


但し紅子は賢さだけでなく生来、霊的な能力を受け継いでいる。何故輪華と結婚していないのか、以前よりしつこく尋問されていた。質問でなく尋問である。「おじさんママが好きなんでしょ」「好きだった、じゃなくて今も好きでしょ」「何で結婚してないの」「パパ(充)がいたら結婚出来ないの、おじさんはパパになれるんじゃないの」最後の尋問は位置付けを成り変われるのでないか?という意味にその時は捉えたが、あなたは本当は父親なのではないか?と紅子は聞いて来たのだと考えている。


最近は充を“おじさん”と呼びこちらを“パパ”又は“お父さん”と呼ぶが充の前では、両者を“パパ”と呼んでその場の笑いを取る。



輪華との関係は良好だが、不安が常に有る。彼女は充を気に掛け過ぎる。二人を可能な限り会わせていないし、今後も会わせる気は無い。会えば輪華は充の手や脚、肩等に自然に触れる。他意は無いらしいが。


彼女の考えている事は今以て良く分からない。これ迄に輪華の世話をした老人(複数)にも平気で連絡を取る。彼女が連絡をしないのは、例の脳外科医だけである。

「高良の嫌がる事をしてあげるの」とさも恩着せがましく言われる時が多々有るが、望んだ覚えは無い。しかし振り回されているのは事実である。実に小悪魔もとい化け猫めいた顔をして笑っているので、甘んじて受け流している。


願った事は歪みを帯びて全て叶った。輪華が不治の病である、この一点だけが除去出来ない。だが逆に言えば病変の為、彼女は今隣に居るのかも知れない。病気でなければ輪華は充と過ごす人生に間違いなく堪え切ったであろうし、無理にこちらに連れて来たとしても留まる訳がない。

輪華は「外に行きたくない。とても疲れるから。だから高良と一緒に居る」と言う時がある。どうも好意からでなく体調面の不具合で一緒に居ると、言われている気がしないでもない。





長い長い話になった。筆をここで一旦置く。

37,38,39………と歳を重ねる毎に書き足して行く事が叶うのなら、もし本当に叶うのならばそれに伴ってこの寿命が大きく削られて行けば良い。輪華にこの命をやる。終息が同時刻になれば良い。これが最期の唯一の願いだ。


絶刻とは絶える刻が同時になる様、主題とした。願を掛けて書き上げた。輪華の解釈した様に「限られた大事な時間」との意味合いもあるのだが、他の人間関係や彼女と過ごす時間以外の時間、他の一切を排除し輪華だけにこの先の人生を捧げるという意味もある。

少女だった彼女が最初に求めて来たものが、それだったと信じている。


fin.とは打たない。代わりに年月日を記し一旦閉じる。


これ迄に捧げ得なかった祈り,信じ得なかった奇跡,聞き得なかった御言,近付き得なかった聖所,仰ぎ得なかった聖顔

天にまします神よ

暗黒の世に在って世の光、地の塩となり

互いに愛し信じ慈しみ合い忠実に歩み続けられる様に。

主イエスの御名によってここに祈ります。

2018/10/1



輪華/side B

鏡界/


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